連休がやってくる

永遠にやってこないのではないかと疑ってしまった連休がやってくる。過労困憊な状態が続いていたから、ちょっとは静かにさせて頂く。前半は雨の日が多そうだが、天気予報的には後半に晴る日がありそうだ。雨が降ったら降ったで、まぁ、庭でBBQなどしてやろうかななどとは思うが、やるかどうかも解らない。草臥れ切って何もやる気がしないかもしれない。とか何とか言っているが、やらないといけないことは沢山あるから、まぁ、何かをするのでしょうね。時にはじっくりと読書も宜しい。そんな気分でいる。

がきんちょの頃は、祝日はもっと少なかったし、連続して休暇を取得するという考え方そのものが無かった気がする。働きバチであっちの世界に旅立った親を思い出すのだが、社会の構造がそうだったと思う。ましてや研究者に5日間は必ず休暇を取得せよなんて指導が降りてきて、一方では研究成果をあげていけという。没頭してはいかんのか?まぁ、電子雑誌にアクセス出来れば、宿舎で論文検索などはかなり出来るような時代になっているからね。でも結局、職場としての大学に出てくるかそうでないかの違いであって、没頭していることには変わりが無いのだ。労務管理的には職場に来るなということなんだけどね。

休みが続くとは言え、永遠に続くわけでは無いから、きちんと考えて時間を消費しないと勿体ない事になる。休日の時間って異様に早く過ぎますからね。連休初日の夕方が来ると「あぁ、もう休日が終わってしまうのか」となんと切ない事でしょうという気持ちになる。だからと言って、あれもこれもなんてことを決めておくよりも、適当に、こんなものかなくらいの方が気持ちが楽になって良いのかもしれない。休日思考貧乏みたいなものかな。

何はともあれ、五月連休というのは国民のイベントと言っても良いくらいの代物だから、これだけはやっておこうということを決めておくのは悪い事では無い。小生もそれは一つだけは決めてはあるのだが、それとて別に、折角の連休中にやらなければならないことは無いし、だらだらするのも悪い事では無かろう。親が死んでも食休みでは無いけれど、のんびりぼけっと世界平和を祈ってみたい。まぁ、やることと言えばそんなことかな。

挫折せよ

どうやったら出来るのか。それを考えている時が一番幸せである。出来ないことを上から目線でねちねちと叱り続ける上司もどきが多いが、そんな輩は作業人であって、仕事をしたことは無いのだろうなと思ってしまう。経験で出来るようになったのなら、それをそのまま伝承して、皆が同じレベル感で作業が出来ればそれで良いでは無いか。ところがそんな輩に限って、経験値の私物化に走っていく。現状の自分を越える作業をしようとも思わない。哀れなお話である。

何かを成し遂げる、当初に設定したゴールに到達することは容易な事では無い。夢を描いて進んでいくわけだから、当然の事ながらハードルは極めて高く、そして足を引っ張る方々に囲まれているから容易なことでは進められない。紆余曲折、一歩も進まず三歩下がったりしてね。チーターもびっくりだ。それでも諦めないで粘り腰で踏ん張っていると、なんとかなっていくものだ。まぁ、相手にも依るけどね。

結局、思った通りに成らなかったなぁという時は、まぁ、諦めることにしている。いつまでも引っ張っても草臥れるだけだからね。面倒だからやりたくないという人とは組めないね。しかし、それはやっていながらでないと見えてこないのが欠点である。突然「あっ、この人は実はいやいやながらの参加だな」って何処かで見えてきますよね。二枚舌で見事に騙される。基本、性善説で生きているので、この手の方は苦手なのですよ。

夢に向かっていると挫折がある。挫折が無いような夢なら見ない方が良い。自分を育ててくれるレベル感の夢を見ないといけない。そこには必ず挫折がある。だって夢だもの。夢を見ない人は、夢を見ている人を見守ってやらねばならぬ。必死に足を引っ張るのは止めて頂きたい。文句は誰でも言えるが、夢を見て進む勇気はなかなか湧いてこない。恐怖で一杯だ。その者を尊敬し、見守ってやるのが良い。そうでなければ君は一生、卑屈未練である。

新三つ子の魂

今の中等教育の現場を拝見したことが無いのが宜しく無いのだが、小生の遠い昔を振り返ると、小学校では『糸のこ盤』で木材を切って、彫刻刀を使って、何か彫り物をしたような記憶があったり無かったり。中学校ではボール盤を使って、木材にほぞ穴あけ加工をして、ブックスタンドを作った記憶が、こちらは明瞭に残っている。強力な機械に触れて「こりゃ、凄い」と感じた体験は忘れないという事だ。いや、単に、ロボットの様な(ボール盤だが)機械が、ロボットアニメを見ているようで楽しかったのかもしれないが、貴重な経験である。久保先生というお名前の先生であったことを覚えている。感謝申し上げたい。

何が言いたいかと言えば、可能な限り若年時代に「ものはこうやって作るのだ」という体験を沢山させて欲しいということだ。
ナイロンの合成というか、屈折率の異なる液体間をピンセットで摘まんで、その先を回転、巻き上げていくと、なんとナイロン繊維が出来てくる。これなどは化学反応の学習ということなのだが、中学生の時に見ていたら、そっち方面に進んだ人間になったかもしれない。創薬に興味を持っていたかもしれない。要は、質の高い体験を、なんだか解らないけれど、見せることってとても大切だと思うのだ。出来たものを触って、リアルが目の前で出来上がる経験を、数多くさせて欲しいと願うのだ。

STEM教育とかね、高校でやっているんだけど、小学校低学年でやって頂きたいものだ。「先生にスキルが無い」というなら、文科省が高校や大学から実践するような仕掛けを作れば良いのだ。大学発ベンチャーで、特にディープテックを増やせなんて言うけれど、種まきは小学校3年生頃までだろうと思っている。大学の研究室で見出したものを社会に出せとか言っているけど、こんなことをやってみたいと小学校の頃から思っていないと、そう簡単に挑戦者には成れない。挑戦者を潰すことに懸命な大人が待ち構えた社会だからね、この国は。

延々と一票の格差とか言って、何十年経っても民意反映が不平等だとか、戦争が始まれば防衛予算を増額しましょうとか直ぐに動くとか、そんなことには入れ揚げるんだけど、イノベーションを起こせとか言う割には、その種まきに頭を使おうとはしない。工科系高校という仕掛けはあるのだが、ものづくりの楽しさと大学進学の両立を図っている学校の何と少ない事か。ものづくりをしない人が工科系大学に入り、その人が教員になって指導していく。本質的なところが見えているのだが、さてさて、どんな荒療治が必要か。長く掛かるがやる奴がやらないとね。そう思う。

知床の悲劇に思う

「こんなものがこんな価格で入手出来るのか?」と世界から物を買ってみると驚かされる。逆に「一年足らずで劣化が目に見える製品がメードインジャパンか」と、特にエレクトロニクス製品の凋落振りは凄まじい。そんなものなのかもしれないが、この格差が何故生まれたのかを真摯に受け止め考えないと、作ったものが海外に流通して行って、外貨を獲得出来る国には永遠に成れないのではないかと不安でいっぱいになる。そうなってはならないのだ。

メタワールドがやってきますと、それはそうなのでしょう。新規の仮想通貨がTVコマーシャルで現れるくらいですからね。日本が最も豊かだった縄文時代においては仮想通貨は無かったとは思うが、シャーマンが居たくらいだから仮想という概念はしっかりと存在したと思う。火焔土器などはその存在そのものが魂の叫びであり、実態の向こうの思想が具現化されているのだと、全国宝火焔土器に囲まれた展示会で震えたのを覚えている。遺伝子が繋がっているのだなと実感させられた。この感動が重要だ。

LSI製造において、我が国は要素技術では貢献出来ているが、トップレベルの最終製品を作り出すことは出来ない。中古の露光器が飛ぶように売れて喜んでいる体たらくだ。開発コストが掛かり過ぎるから挑戦しない。ビジネスとしては当然の判断だが、技術しか売る物を作れない国において、その判断は正しかったのか。知床クルーズで悲しいことが起こって胸を痛めるのだが、その船は以前にも座礁経験があり、その船が行方不明になったのだという。修理が真っ当ではなかったのではと疑いたくなる。修理が出来ない技術しか無いのかと、そこに哀しみを覚える。

小生は異端児である。改革と挑戦に挑み続ける人種であって、八方美人の政治家諸氏とは真っ向対立する思想にある。沈む観光船で国民の命を奪うGoToなんとか(名前が変わったらしいが、興味が無いので覚えていない)を推進する政治家とそれを尊ぶ国民とは決別してしまいたいとは思うが、民主主義で、国民と名乗れる国家は日本しかないから仕方が無い、ここに居るわけだ。技術をもっと高めなければならない領域は沢山ある。あるが、高める土壌がこの国の何処にあるのか。それを見つけるGoToなら何処にでも行く。そんな気分である。

アイデアタダ取りは嫌だ

研究不正という行為があって、捏造、改ざん、盗用なんだけど、学会なんかで「面白そうなことをやっているな、自分もちょっとお試しでやってみよう」位は盗用では無い。その方の発表等をきちんと引用させて頂いて、周辺の研究も調査して、その後、独自の視点を作っていけば良い。論文で発表出来れば、まぁ、査読を潜り抜けるから、クオリティの高い論文誌であればその人のアイデアということになっていく。

全部だめなのだけど、共同研究等で第三者に評価される環境に身を置くと、そんな意識から遠くなってくわけで、特に工業系の大学研究者は、全員が共同研究で第三者の目に触れる状況になって頂けると良いなぁなどと思っている次第。オリジナルの研究テーマって、過去はなかなか世に出ず埋もれるのだけれど、それを社会に還元していくチャンネルはベンチャー等も日本で当たり前化してきたので、様々な可能性が出てきたわけですよ。

研究不正なんてものはする必要は全くなくて、アイデアが枯渇したらテーマを換えれば良いだけの事。生きている限り何かやることがあるのですよ。西洋では神様が見ているからとか言いますけど、日本なんて八百万の神様だからね。それでもやる人はやるんだからどうしようもない。論文なんて嘘ついて作るものでは無いですからね。きちんとした装置を使って、あるいは作って、誰がやっても再現することを書けば良いだけなんだから、不正など全く必要無いのだ。

企業もね、時々リコールネタでお騒がせをされますけど、人の命に関わるようなことはリコールでは済まされないわな。商売不正とでも言うのかもしれないけれど、これも全く頂けない。凄い技術が出来ましたと見せつけておいて、実はファンド集めだけだったとかね。あるいはアイデアをタダ取りしていくとかね。そんな行為に出会うと、研究不正みたいなもんだな、この人はと思うわけですよ。願い下げで塩を撒きたくなる。塩がもったいないからやらないけどね。

幅広い学びのゴールは?

大学は学生に幅広い学びをさせろと言う。幅を狭くした覚えは全く無いのだが、親方も産業界も言う事が猫の目よりも激しく変容し、教育の現場に疲労感だけを与える。幅広い学びをさせろと言うのだから、何らかのタイミングで「こいつら、知識等の面において幅が狭いな」と実感されたに違いないのだ。幅広いというくらいだから、何か基準があるに違いないのだ。幅と言ったら「何センチ」とか「ナゴヤドームの直径」とか、定量的に言える筈なのだが、「広い」というマジックワードを使っているところが汚らしい。

そうかと思うと、就職活動において、それ以前のインターンシップでの評価を就活の評価に加えて宜しいとかね、そんなもの使っていなかったところがあるんかいな?と疑問に思うところもあったりとかね。そんなところで「幅が狭いな」ってレッテルを貼っているのでしょうけれど、こんな事を言い出す人はよっぽど幅が広い御知見がおありなのでしょうね。精神的にもお釈迦様的というかね、大きな大きな方なのでしょう。メタ空間よりも広い方々なのでしょうね。

大昔なんだけど、ガマの油売り大学で学ばせて頂いていた時に「大学卒と高校卒で何が違うか?それは高校卒は何でも出来ると思っている、大学卒は自分は何も出来ない人間であると解っている」と仰ったことが耳に残って、何かの講義の時にはそれを学生諸君に披露したものだ。その前提が「幅広く学ぶから」であるのだが、Z世代諸氏は「疑問即検索、そして回答」が条件反射で成されるわけですよ。Web上にある情報を、自らの価値観で取捨選択して回答してくる。そんな時代になっているということを認めないといけない。

ここで問題は「自らの価値観」である。価値観は親族や自らの歴史を時間軸にして、その間にどのような人との関りがどれだけあったか、自らがどれだけ創造してきたかによって決定づけられるが、それが極めて少ない情報から成り立っているのではという事であれば「幅広い学び」によって価値観をマルチに広げろとかね、幅広い学びでどんなゴールに誘って欲しいとか、そこまで言ってくれないと、「お前のキャンパスの蝉がうるさいから黙らせと」という方と同類と捉えてしまう。ゴール設定が無い言動は慎むべきである。新聞記者諸氏に猛省されるべき。

ビジョン検証はアジャイルで

フォアキャスティングとバックキャスティングの両方を組み合わせて企画を立てていくことを、オールキャスティング型って言うそうなんだけど、ここまでくると「当たり前でしょ」と言いたくなる。言いたくなるのだけれど、案外、どっかが抜けているから油断は出来ない。フォアキャスティングは料理作りであって、順番に作っていって最後は食べてみて感想が決まるってやつ。バックキャスティングは食卓の笑顔、その後の会話等々、最高の幸せを描いておいて、そこから今に辿り返す方式で、これはコツがいる。

バックキャスティングでって最近はいろんなところで聞くのだけれど、バックしてくる未来の確からしさをどのように検証するかは決まった作法があるわけではない。僕などは性善説で生きているから誰かが笑顔になったイメージからスタートして、時間的に思考を前後させながら検証していく。ゴール的にはそこまで到達しないことが多いのだけれど、それはそれで幸いなことで、まだ、何かが足りなかったことに気が付くわけだ。ビジョンを構成するなんらかの要素が足りなかったってことになるのだけれど、フォアキャスティングよりは足りない要素は少なくなるのは間違いない。

ただ、バックキャスティングで語ると「絵空事」とかね、出来ないことを言うなと偉い方々から怒鳴られたりするんだな。そんなもん、出来ないよとかね。私はそれには批判的だとか。じゃぁ、何故そう思うか言ってみろと尋ねても、これまた怒鳴り返されるだけで、時間の無駄となる。過去にしがみついている方々には本当にご退場願いたいわけだ。ちゃらんぽらんで無責任なほうがよっぽど救われる。まぁ、良いんじゃないと言ってくれた方が、頑固に理由もなく反対されるよりずっとまし。あいつが嫌いだとかわけのわからない理由を聞かされるとやる気が消える。

バックキャスティングは当たり前の思考なんだけど、現在起こっている現象を、元に辿って行くと、バックキャスティングの確からしさの検証になるし、思考のトレーニングになる。ニュースを見ていて「なんでこんなことに成っちゃったんだろう」と思う現象を時系列を遡ると「なるほどね」なんて考えることもあったりする。バブルが弾ける前に大儲けして、その病から抜け出ていないとかね、もうそんな時代じゃないんだけど。理由無く反対される暴力者にはご退場願いたい。

ニーズこそ喚起対象

当たり前のことなのだが、技術は社会実装されてこそ価値を生むわけだ。まぁ、お金が回り出すってことだね。しかしながら社会実装を考えると、グローバルに政策・産業・市場・技術の観点から分析が必要なわけで、これは相当なインテリジェンス機能(シンクタンクという陳腐な言い方は嫌いだ)が無いと不可能である。鶴舞大学レベルでは困難なわけで、どこか出来るところは丁寧にやるということだ。

多くの日本人の方々が、海外製のスマホを活用されているのを見るまでも無く、便利さの獲得の為にはその出自は選ばないというのは当たり前である。それがグローバル市場ということで、日本人だから日本製に拘るという前提に立って商売し過ぎではないかなと思ったりもする。その昔の勢いを忘れられずに、グローバル市場に日本製品が獲得できる椅子があると思っている。どれだけそんなところがあるのだろう。超高付加価値製品製造に挑むしか無く、すると素材から最終製品まで、全てが要素研究から開発、そして製造まで一気通貫で考えねばならぬ。当然、市場で価値を受け入れられるものであるのは間違いない。

そうなると、陳腐な技術では駄目なわけで、陳腐では無い技術ってどこにあるのかと言えば、これが案外あるもんだと考えている。何処にとは言わないが、丁寧に探り出す仕掛けを作って、社会のニーズを喚起できれば、行動する産業界メンバーもゼロでは無いと思いたい。それが本当にゼロならば、我が国は直ちに高等教育など辞めれば宜しい。恐らくはそうは思っていないと信じたいが。社会的課題、社会的要請は沢山あるのだ。ヘルスケア、食糧等々、きりがない。限られたGDPをどこに分配するかだが、もう、平等なんて必要ない。良い依怙贔屓国家になるしかない。

そうなると、政治家諸氏は票を失うから、そんなことにはならないんだけど、最初に取り組むべきは何なのと、税金の使途を判断できるのは政治家諸氏しか居ないのだ。大学の研究はフォアキャスティングに陥りがちだが、ここもバックキャスティング的にテーマ設定をしていかねばならぬ。とことん定量的に挑戦するからこそ、差別化が生まれ、社会にニーズを喚起できる。喚起したニーズの質が高ければ、シーズ研究の質が上がる。金融はそこに融資する。正しい経済の流れはものづくりからだ。そう思う。

正しくDX

得られた情報を適切に処理をして、それを更にデジタルで処理をしていく。判断という人間の思考も、デジタルに対応したものになっていかないといけない。アナログなブレストも、思考の土台となるエビデンスをどれだけ広く深く集めるかが重要なポイントである。狭視野では誘導的な思考のためのデータとなってしまう。下手な卒業論文みたいなものだ。1度のデータどりだけでグラフを書くのは、SNSでフェイク情報に踊らされるようなものだ。デジタルツールの普及によって、出張による移動時間の消失など良い事ずくめだが、逆に会議が増えて、決断を迫られる内容がどんどんと増えていくと、アナログ作業が増えていっている感じがする。

紙の書類が次から次へとやってきて、検索できない情報がゴミとなっていく。活字になっていれば検索できるのにと、重要そうなデータが記載された髪を恨めしく眺める。組織の中で上手にデータが管理されていない、即ち、始祖期の係長なり課長なりが、紙が好きということであろう。働き方をDX出来ないということだ。アナログな人的やり取りはそれはそれでしっかりとやる。企画もAIが出せる時代なのかもしれないが、組織の優位性というか、他との良い意味での差別要因を含んだ企画立案という点では、それなりの者が作り込む企画書に軍配が上がるような気がする。勿論、外部要因を取り込むなどのところはAIに頼るのが重要だ。この辺りのさじ加減が組織として出来てい無さ過ぎる。

小生はメール受信やTeams受審のアラートというか、通知音は特定の者以外のものは消しているので、書類作成中にいちいち対応はしない。必要があると対面で督促が入るので問題ない。忘れてしまうのは最悪だが、それを適切にデジタルで防ぐ手法もあるわけだから、それを存分に活用させて頂く。最近はクラウド人間になっているので、ネットワークの遮断などが起きると、それは一大事。だから、日程に余裕をもってお仕事をさせて頂くことになる。ToDoが数十個並行して動いているので、瞬時に対応できると思ったら瞬時に行い、日程を決めて時間を獲得する必要があるものは、それを選別する。その他の物は困難と思われるものからやっつける。それでも四苦八苦だけどね。

見せかけのテレワーク環境だったりDXだったりするのが最も良くない。特に企業の営業者などがいかん。何でも会えさえすれば解決できると思っている。不愉快この上ない。リモート環境で解決できない契約事は、対面でも解決しないのだ。落としどころを持たず、取り敢えず行動なんて輩は、今の時代では存在悪である。ゴールを定量的に設定して、そこから取るべき行動を取る。背中を見て仕事を覚えろとかね、そんなアナログな思考で成り立つものは作業だからAIが近い将来、お仕事を奪って頂けるはずだ。さっさとそんな社内構造にならないかなと期待しているのだ。思考を正しく積み重ねたい。それが贅沢と思われるようでは、やっぱり日本は五流国だね。

遥かなるアジャイル型

アジャイル型開発という言葉が、我が国でも語られるようになってからどれくらいが経過したことか。3Dプリンタで整形した金属部品が、海外では実用的なところに使われ始めてきている。航空機の部品に活用し、いきなり燃費を上げたことは記憶に新しいのだが、理論的にはこの形だけど、工作機械を使うとそれが出来ないとあきらめていたところに、3Dプリンタが魔法の杖の如く現れ、理論的形状をそのまま実用に持っていくことを実現した。我が国はその活用に極めて遅れて居ることは周知の事実である。

石橋を壊しても渡らない、あるいは他人の知恵はゼロ円で、盗んで使う、いや、堂々と聞いて黙って商品にしてしまうというのが日本企業という印象がある。最近も某社がそののりで迫ってきていることに対してお灸をすえたりしたのだが、まぁ、それは置いておくとして、経営コンサルが花丸をくれないと、ものづくりがスタートしないこの国では、外貨を獲得するような商品は出てこないのだろうなぁと悲しく思うわけだ。1000億円の年商が上がらない商品は作らせないと、近所の老舗企業のお偉いさんが豪語されたが、そんなホームラン狙いばかりで良いのかと思う。

電池の開発などは、それこそ地球人類より研究者の方が多いのではと思わせるくらいに、多くの研究者が活動しているわけだが、どんなところに使うのかから考えないから、みんな自動車に使われないと駄目みたいな雰囲気何だけど、例えばコンビニからどっかのアパートに注文品を運んで、届けて戻ってくるのに、そんなに長時間のフライトは必要ない。むしろ、急速充電が出来て、繰り返し充電に耐える電池であれば良いわけだ。そのターゲットを目指して、あれやこれややるのを、実機で試験しながらやるのが良いわけで、そんなところにアジャイル型開発である。

それを経営コンサルを入れて、儲ける為にはうんたらかんたら・・そうしている間に海外から狙った商品が出てきて、バージョンアップを積み重ね、満足する商材に化けていく。つい昨日のことなのだが、日本企業のそんな商品を見かけて、つい、発注してしまった。旧タイプもネット上では見ることが出来て、活動時間やちょっとした気遣いが加わって、流石だなと思った次第。顧客の声を吸い上げるにはって、直ぐに逃げるけど、社員の方々の意見で良いから反映したらと言いたい。自分の事を他人に押し付けすぎるところも気に入らない。アジャイル型が良い。そう思う。