幅広い学びのゴールは?

大学は学生に幅広い学びをさせろと言う。幅を狭くした覚えは全く無いのだが、親方も産業界も言う事が猫の目よりも激しく変容し、教育の現場に疲労感だけを与える。幅広い学びをさせろと言うのだから、何らかのタイミングで「こいつら、知識等の面において幅が狭いな」と実感されたに違いないのだ。幅広いというくらいだから、何か基準があるに違いないのだ。幅と言ったら「何センチ」とか「ナゴヤドームの直径」とか、定量的に言える筈なのだが、「広い」というマジックワードを使っているところが汚らしい。

そうかと思うと、就職活動において、それ以前のインターンシップでの評価を就活の評価に加えて宜しいとかね、そんなもの使っていなかったところがあるんかいな?と疑問に思うところもあったりとかね。そんなところで「幅が狭いな」ってレッテルを貼っているのでしょうけれど、こんな事を言い出す人はよっぽど幅が広い御知見がおありなのでしょうね。精神的にもお釈迦様的というかね、大きな大きな方なのでしょう。メタ空間よりも広い方々なのでしょうね。

大昔なんだけど、ガマの油売り大学で学ばせて頂いていた時に「大学卒と高校卒で何が違うか?それは高校卒は何でも出来ると思っている、大学卒は自分は何も出来ない人間であると解っている」と仰ったことが耳に残って、何かの講義の時にはそれを学生諸君に披露したものだ。その前提が「幅広く学ぶから」であるのだが、Z世代諸氏は「疑問即検索、そして回答」が条件反射で成されるわけですよ。Web上にある情報を、自らの価値観で取捨選択して回答してくる。そんな時代になっているということを認めないといけない。

ここで問題は「自らの価値観」である。価値観は親族や自らの歴史を時間軸にして、その間にどのような人との関りがどれだけあったか、自らがどれだけ創造してきたかによって決定づけられるが、それが極めて少ない情報から成り立っているのではという事であれば「幅広い学び」によって価値観をマルチに広げろとかね、幅広い学びでどんなゴールに誘って欲しいとか、そこまで言ってくれないと、「お前のキャンパスの蝉がうるさいから黙らせと」という方と同類と捉えてしまう。ゴール設定が無い言動は慎むべきである。新聞記者諸氏に猛省されるべき。