AI力

既に3,4年が経過しただろうか。藤井名人が登場して「天賦の才を持った人が、その才にふさわしい道を歩み始めた時、本当に凄いことになるのだな」と人の可能性に感動したものだ。AI研究者それを語ったら「最近、全く興味が無かった将棋番組を観る様になりました。それはAIが予測した結果と異なる指し手で勝つというところに感動したから」というものであった。専門家の見立てはユニークであると、そっちの方に感激した。

小生が物質工学分野で「研究計画を立案し、商材として世に出ているところからバックキャスティングして、ものづくりの指針を生み出すプロセスインフォマティクスの研究者を雇用するべき」と人事提案してから11年が経過した。どの学長の何年目に提案したかと言うことを記憶しているので間違いない。昨日、AIが研究プロセスを思考し、その思考の元、仮想的に研究し、その成果をまとめた論文を投稿した結果をAI査読したら5ポイント(速攻でパブリッシュ)手前の4ポイントであったと報じられた。

とうとう来たなと、なんだか妙に納得し安心した。例えば電池の研究などは膨大な量のデータが蓄積されており、日の目を見ずに眠っている。それらがAIによって統合され、現状で目標の6割までの性能の商用電池が8割の性能に1年で到達したらどうであろう。その間の研究者の、恐らくは隠され消えていくノウハウなどが活かされて温暖化が減速するかもしれない。研究者へのリスペクトが必要なのだが、その点も誰が頑張った成果かと言うことも併せて活用されると有難いのだが。

先端技術はどんどんと先端であるべきで、それをどのように活用するとどんな幸せに繋がるのかもAIのアシストを期待したいものだ。さぼろうということではない。AIが示す手法を実現するための道具作りをAIがやるとしても、その道具の原器をAIが作れるのか?今は人が作ることになる。どうやって作ったら良いのかのアシストをAIがするにしても、この数年は人間の思考が必要になると思う。人が必要とされる間に散ることが幸せなのかどうなのか。悩むところだ。

幸せ?

白紙の紙に自分が楽しいことを描いてみてよと言われたら、何でも良いから描けるでしょう。今、存在していないビジネスを描けと言われると、それはかなり難しい。では、誰かを定めて、その人を楽しく驚かせる、即ち喜ばせる「新しい事」を描いてみようというのはどうだろう。ぱっとした思い付きで良いのだ。それがその人にとっては初めてであれば良いのだ。世界中を検索して、AIに尋ねてみようということなどいらない。

威張るという圧力から説明をされる人がいる。新しい事を教えろと。こちらの知恵をタダ取りしようという行為であり、更に、脅迫迄加わってくる。厭らしいにも程がある。お互いが気持ちよくという概念が無いのでしょうね。じっと嵐が過ぎるのを待つ。いや、待たない。老害は宜しく無いのだ。若者に任せれば良いのだ。その任せ方が問題なのだ。

常に高圧的、そして回顧的。嫌、懐古かもしれない。小生も含めて老害者の知らない世界が若者には間違いなく有るわけで、その気付きを出して頂くことこそ先人の務めである。当たり前の、既知のことかもしれないが、その若者が「何故」それを語ったのかは老害者の視点とは異なっている筈だ。となると、老害の知恵がひょっとすると若者視点の場においても活きるかもしれない。活かして頂けるのかもしれない。

高圧的な方って「幸せ」では無いのでしょうね。幸せって何と言われてもスパッと明確に答えられないのだが、うらやむことなく、自分の意思を明確に持て、明日、成すべき事を自ら白紙の上に描き出せる状態とでも言おうか。新しい事をやろうというのであれば、気が付いた古い事は捨ててしまって、脳を真っ白にするのが宜しい。すると次に思ったことが新しくなる。知っていると競争になるが、知らないと共創が出来る。それは幸せである。

地図のない世界に生きる

船頭が多くなったらどうなるのかというお話があるが、リアルな船で船頭が沢山居るという経験は無い。無いから船は山に登らないから安心だ。丘の上での会議のお話。ここでのお話は船頭だと思っていたら会議の議長だったという落としどころ。しかも議長だと思ったらそうではなかったということで、誰もどこに居るのか分からない体験をした。

兎に角いろいろ震源地から湧いてくるのだ。屁と火事は元から騒ぎ出すの例えのとおりかもしれない。しかし、今回はちょっと違って、震源地が複数個存在するのだ。そして気が付いたら自らも震源地の役割の担当者になっていた。いや、気が付かないところでなっていたとするのが正しい。

誰もゴールを知らないどころか、何故、その場に居合わせているのかも知らない。だから船頭は沢山居てもどこにも行きようが無いという状況は凄まじい。震源地すらどこだか分からない。恐らくこの辺りであろうというレベル感で、皆が疑心暗鬼になって会議を進めている。いや、進めていることが分かった。

何となくだが、こんなことを議論するべきなのだろうなということしか分からない。だから分かったことにはなっていは居ないのだが、誰もゴールを知らない、次の一手も分からないということを共有することの愉快さを知った。時にはこんな経験も良かろう?とあるところで経験した、貴重な出来事であった。解決手法は各自が思っていることを共有すること。共創のきっかけはそんなところにあるのだね。

時々の食糧事情

時々話題に出す食糧自給率なんだけど、1980年代には50%を超えていたのに、今現在、30%台だ。肥料や飼料まで含めて考えると10%台だろうという研究者もいらっしゃる。絶対値が少ない事はよろしくないが、急激に減少していることはもっとよろしくない。海外から売って頂いているわけなんだけど、円安でどんどこ食料品は値上がりしていくしね。日本の価値というか、日本人の価値と言うか、海外に対してプレゼンスを示していかないと、食糧売ってあげないよと言われかねない。

最も重要な教育に関しても、少子化で学校合併だの、教育費削減だのと突っ走って来て、ここにきて、教師の給料が安すぎるからだと、給与をかさ上げしようなんて動きが出てきた。本当にお金だけの問題か?残業するなと言われて発生することは、家庭に仕事を持ち帰るという行動だ。悲惨な状況である。小生などはフェードアウトモードに入っているから出勤時刻を6時から6時半に遅延させているが、それでもアップアップである。

企画を考えていくとお仕事は無限に広がっていくわけで、それが公の為になっているのであればそれはそれでお仕事であり、減らすつもりはさらさらない。恐らく、全ての教育機関で同じことが発生しているだろう。先日、産学連携実務者の全国会議があったのだが、良い事例と思っても、地域に応じて通用する・しないが存在するから、学びが実務に反映されるとは限らない。知見を得ても仕事が減るわけでは無いのだ。

労働人口が減るということは農業従事者も当然減る。株式会社化が進んではいるが、農地に関して強烈な政治のネタになっているこの国では、思うようには進まない。気が付くと農地が工場やアパートに化けているのが現状である。更に気候変動が追い打ちをかける。いつまで学び続けることが可能なのか解らないが、まだまだ筆をおけそうにない。ただ、何時まで食べていけるんでしょうね?そっちも心配になってきた。

引退勧告

何と言うか、当たり前なんだけど、研究者は「新しい!」ことを追い求め、産業者は利益を追求する。どちらも間違っていなくて、それぞれの役割だから当然の思考であり、そうでなければならない。困ったことが起こるのは、暴走する研究者が学生を巻き込んで「これは凄いんだ!直ぐにでも社会に実装されてみんなは有名になる」みたいな魔法をかけてしまうこと。醒めれば悪夢だったということなんだけどね。未だにそんな研究者は多い。

まぁ、そんなことも学生諸君にとっては生涯の宝物になるかもしれない。「そんなものなんだなぁ」と、反面教師にしてくれれば良いのだけどね。それと「新しい!」を追い求める夢は捨ててはならない。ひょっとすると学生時代では「他の技術が追い付いてこなかったから使われない要素技術だった」というだけで、何年後かには使える要素技術となっているかもしれないのだから。売れるために新奇を追い求めるだけでは夢も希望も無い社会を作っているだけだからね。

嫌らしいのは発明者が自分で応用先を思いつけないから、誰かから聞き出そうとしたりね。そんな人々からどんどこ逃げているのだが逃げきれないで、未だに嫌な思いをする。これは自分が弱すぎるからなんだけどね。どんどんと図々しいというか、良い人を辞めようと思っているので、これが最後と切りまくってはいるものの、ヒルのごとき病魔を断ち切りきるのはなかなか難しい。

これは素晴らしい!というものには条件、即ち活用される環境に縛りが生じる。その縛りがいったい何なのかが理解できない人が学者をやっていてはいかんと思う。AIだの、電脳がサポートをしてくれる時代なのだから、どんどこそれらを使っていくのが宜しい。大切なのはビジョンを自分で描けるかということなんだけどね。「自分が」を主語とするストーリーを描けない人は学者をやっては駄目。時代は大きく動いている。気付きなさいよ。

討論すべし

いろんなところにいろんな意見があって、それをこうしたい、ああしたいと、討論することは正しい姿である。それが私利私欲の実現でなければ。こうあるべきだとか、自分はあいつが気に入らないから政治力を使って足をひっぱってやろうとかね、まぁ、よくある事なんだけど、そんなことをやっている輩は、いずれ自分に戻ってくることを知らないのだろう。地道に勝るものは無いと思うんだけどね。

政治家殿に言われることだが、落選したらただの人なんて言うのが最も辟易する。当選していてもただの人だ。ただの人であり続けて、天下国家のことを考えるのがその役割なんだけど、次の当選の為にお金を撒いてくれたりね、そんな人達に隙を作ってしまうとさぁ大変。その呪縛から抜け出せなくなって、金の為に活動するようになる。極めて醜い世界である。まぁ、聖人の世界にもお布施なんて言う綺麗な言葉でお金を回したりするんだけどね。いずこも同じ秋の夕暮れですよ。

ちょこっとTVで夫婦別姓の話題を聞いたのだが、それこそ当事者の勝手だろうなと思うのだ。それを政治や宗教の道具にして、醜い争いを何時まで続けているのやら。諸外国ではとっくに解決されているネタであり、そんなものにいつまでもしがみついている様は滑稽である。確率論的なお話で、このままだと国民全員が佐藤さんになるというお話なんだけど、それこそおぞましい。

何か古くからあるルールは、生活をしていく上でその時代において必要だったから生まれたに違いない。だから。何か新しい提案があったならば古きを訪ねて、世界情勢はもう違ってきているよねと、近未来を起点にどうあるべきかを議論して、変えていけば宜しい。戦争しましょうなんて言う改憲などは議論しなくとも良いが、人が人であることに関して、頭を柔らかくする時代なんだけどね。聴いていて寂しくなるような議論しか聞こえてこない現状が嘆かわしい。そう思う。

ものづくり

ものづくりに関してなんだけど、特にこの東海地域は自動車産業が盛んだったこともあり、敢えて過去形にしてみたが、工作機械の受注がどうなっているか追跡していたりする。そんな暇があるのだなと思われるでしょうけれど、職制柄、地域ものづくり系企業様の元気をお伺いしていることが癖になってしまっている。昨年の7月期に比べ、今年度の7月期は内需で10%程度、外需は17%程度伸びている。内需が減少していることは喜ばしい事では無い。

ただ、工作機械見ているだけで良いのかと言うとそうではない。工作機械って要は削ったりする機械なので、プレス機械は別枠だったりする。それを見ると前年同月比で18%減ということだから、金属のものづくりに関する景気は下がっているのかなと判断せざるを得ない。先日、刈谷市内の某社に営業にお出かけさせて頂いたのだが、受けた感触として「元気ないな」というところだ。

おっきなお会社だけを見ると「高水準で推移」なぁんてお言葉を賜るのだけれど、脱プラスチックを掲げながらミネラルキャストとかね、鉱物を樹脂で固めて素形材としていくことで、CO2削減とか仰るのだけれど、それって本当に正しい方向なのかなと、頸動脈にマイクロプラスチックが蓄積して、突然死するなどという記事を拝見していると、何が何でもCO2削減という方向が、本当に正しいのか?と問いかけたくなる。もっとも、強烈な台風で社会がマヒしていることをみると、がむしゃらにならないといけないのかなとは思うけどね。

社会の中で何処にどんな素材が使われて、どんな廃棄物として出てくるのか。ものづくりの社会アーキテクチャというか、全体俯瞰して議論されているのを見たことが無い。自動車というカテゴリだけを見るとかなり議論は進んできているのだが、そこを離れると「なんじゃいな?」ということになってしまう。樹脂繊維を選択したら海にどんどこプラスチックが流れ出すとかね。文殊様のお知恵なんて人が生み出せるものではないが、経済と生命を天秤に乗せ続ける限り、滅びる方向に行くんでしょうね、人類は。

医療費

2023年度の国支援の医療費が47.3兆円になったとのこと。とてつもなく大きな金額で、自らが単年度に徴税される額を基準とすると、一体、何人分の税金かなと、まぁ、企業から支払われる税金のほうが圧倒的に大きいので、何か比較するべき数字は無いかなと考えた。家計簿と言うか、内閣府が統計を取っている「家計最終消費支出」というのがあったので、比較検討してみたい。そんな立派なものではなくて興味本位の比較である。

2013年度で大略2942億円くらいで、大略三千億円だ。面白いのが2024年4月期で2897億円で「落ちている」のだ。人が減っているから当然と言うことなのかもしれないが、家庭からの消費が減っているという事は「景気が下がっている」ことの証拠になっていて、景気が上向いているという政治家やマスコミの報道は真っ赤なウソということを内閣府はちゃんと知っているということだ。国のトップは「景気は上向いているから税金アップ!」なんて言うのだが、とんでもない。

電気代サポートなんてのも、結局、こんな数字を知っていながらやっている茶番であろう。景気なんて決して良くなっていないと感じていたのだが、医療費の凄さから調べてみたら、こんな数字に出くわして「やっぱりな」となってしまった。本当は「こんなに凄い医療費なのだ!」と戯言を言おうと思ったのだが、あらぬ方向に話題が行ってしまった。戯言だから何の問題も無いのだが。

47兆円。これは凄い事ですよ。概算要求117兆円の40%にもなる。源泉・申告・法人・消費・相続税を足した金額が令和4年度で58兆円だ。それとどっこいである。税収がそのまま医療費になっているという勘定で、これが正常なわけが無いというのは誰もが解る事。国民皆保険制度が破綻しているということは間違いなく、これからどうなってしまうのかということなんだけど、根本から何かを換えようという動きは全くない。まぁ、民度を上げる教育からなのでしょうけれど、本社のお偉いさんの接待で何とな成るわけは無いしね。辟易する。

朽木倒し

樹齢三千年の屋久杉が倒れ、様々な声がメディアに乗って流れている。三千年を超える生命を誇る樹木が折れ、倒壊したということに関しては「残念」という気持ちはあるが、それだけである。自然の生命体が自然の現象によって変容したのだ。それは自然のなせる業であって、一瞬の命しか持たない生命体がとやかく言うことでは無い。やって戴きたいことがあるとすれば、しっかりと年輪等を学術的に調査して、この三千年にどのような気候変動があった等々、生きた証を学術的に証明してあげて欲しい。

本土においても樹齢千年を超えると言われる木々が多く存在している。当該地域においては、伊勢湾台風によっても倒されなかった屈強な長寿の巨木があるわけで、それらなどに触れてみると、その暖かさと寛容さに、ただただ感激するのみである。ちっぽけな業績で威張り散らすやからの、なんと残念なことか。重箱の隅をつついて穴をあけて、その向こうを見るような些末な提案を「改革」などとうそぶいて、本社から分配金を獲得できず、次の裏工作に走るようではお里が知れる。

実際のところ、倒壊してしまった屋久杉はどのような処分がまっているのだろうか。垂直に近い、切り立った密林から、倒壊した巨木を平地まで下すには相当の工夫とエネルギーが必要だ。勿論、捨て置いて朽ち果てさせるということも「あり」である。そんな末路を辿った樹のほうがよほど多かろう。山には未だ知られない古木もあるかもしれぬ。人に知られずにいる巨木というほうが、何というか、清々しいではないか。

人も家も暗いうちは滅亡はしないと右大臣は言った。明るみに出るから台風によって倒れただけで大騒ぎをされる。余計なお世話である。自然のままにあるものは、自然によってその生命を絶たれるのは当然のことである。その日が来たということだ。八幡宮の大銀杏ですら嵐によって倒されたのだ。どんな歴史の生き証人であっても、自然のものは自然に還る。美しいではないか。美しく去る。かくあるべし。

計画運休に思う

なんとなくだが、最近、東海道新幹線が計画運休に入ることが多くなっていると感じる。そりゃぁ、静岡、神奈川の土砂降りを見て、日本の土木処置部の脆弱さを見せつけられると、時速280kmで土砂に乗り上げるなんてのはしゃれにならないし、のろのろや閉じ込めの経験者であれば、動いていたから乗ってしまったということが無くなるので、計画運休がよかろうということになるのかもしれない。

妙な勘ぐりを入れると、リニアモーターカー、即ち、第二の新幹線をとっとと完成させたいから、現行の新幹線はこんなに弱いのですよと見せつけたいのかななどと思ってしまう。リニアが出来ていれば、片方が停まっても大丈夫だよと。国土強靭化とは東海道に複数選択肢があることなのだよと、国民にそう思わせたいのかななどと感じたのだ。それとも本当に、脆弱な部位が見つかっているのか?そうなら正直に発表して、一か月間、動かしませんと、緊急工事を行うべきだ。

コメがありませんというお話も気になる。見る影無い首相殿が渡米して、これまた影が無くなった大統領となにやら話をして帰ってきたわけだが、何か、お土産的なお話をしてきたのかなと思っている。余っているカリフォルニア米を緊急的に輸入するために、国内を見せかけのコメ不足に追い込んでおく。あるいは過剰輸出してしまって、倉庫を空っぽに敢えてして、米国からの食糧輸入を進めようとしているのかもしれない。

かもしれないばっかりのお話では、インチキSNSの投稿みたいで気持ちが悪いが、そもそも戯言なのでこんなもんだ。全てが一極集中の東京である。その首都に出入りする幹線経路が、必ずやってくる台風の度に使えないというのではとてもお粗末と感じる。東名高速道路の多重化は素晴らしく、まもなく完成と聞いている。冗長化は無駄では無い。浸水で町の機能がマヒしまくった台風を見ていて、病院に行きたくても行けない国だなと思った次第。どこまで遅れているのか。哀しくなった。