白紙の紙に自分が楽しいことを描いてみてよと言われたら、何でも良いから描けるでしょう。今、存在していないビジネスを描けと言われると、それはかなり難しい。では、誰かを定めて、その人を楽しく驚かせる、即ち喜ばせる「新しい事」を描いてみようというのはどうだろう。ぱっとした思い付きで良いのだ。それがその人にとっては初めてであれば良いのだ。世界中を検索して、AIに尋ねてみようということなどいらない。
威張るという圧力から説明をされる人がいる。新しい事を教えろと。こちらの知恵をタダ取りしようという行為であり、更に、脅迫迄加わってくる。厭らしいにも程がある。お互いが気持ちよくという概念が無いのでしょうね。じっと嵐が過ぎるのを待つ。いや、待たない。老害は宜しく無いのだ。若者に任せれば良いのだ。その任せ方が問題なのだ。
常に高圧的、そして回顧的。嫌、懐古かもしれない。小生も含めて老害者の知らない世界が若者には間違いなく有るわけで、その気付きを出して頂くことこそ先人の務めである。当たり前の、既知のことかもしれないが、その若者が「何故」それを語ったのかは老害者の視点とは異なっている筈だ。となると、老害の知恵がひょっとすると若者視点の場においても活きるかもしれない。活かして頂けるのかもしれない。
高圧的な方って「幸せ」では無いのでしょうね。幸せって何と言われてもスパッと明確に答えられないのだが、うらやむことなく、自分の意思を明確に持て、明日、成すべき事を自ら白紙の上に描き出せる状態とでも言おうか。新しい事をやろうというのであれば、気が付いた古い事は捨ててしまって、脳を真っ白にするのが宜しい。すると次に思ったことが新しくなる。知っていると競争になるが、知らないと共創が出来る。それは幸せである。