戦争につき

強いものが用意周到に世界を暴力で切り取っていく。正義は通用せず、いや、何が正義なのか。国連なるものは指をくわえてみているだけ。罪があったとしても安易に命が奪われて良いはずはない。そうなのだが、教皇とて神に祈るだけでそれ以上の行動には出ない。まぁ、出られないわな。救済行動に出れば核攻撃を受けると脅されて、偽善者ぶる奴は居るまい。我が国だけでは無く、世界中が魔王にいいようにやられている。

ベンチャーだの新規開発だの、それは世界の人々が笑顔で生きて、その笑顔は暴力で奪われないことが前提だ。その前提を大国が打ち破り、それが認められ続けている。世界中から批判は出るが、結局のところ、守るものが他人では無く、自分という状況では、魔物に打ち勝つことは出来ない。商品開発も同じ。自社だけが儲けようとする意識がある限り、自らに魔物を抱えているようなものだ。

孤立無援ぶりが余りにも悲しい状況である。経験がある。経験があるが故に、他人事とは思えない。孤立無援は厳しい。そこに守るべき信念が無ければ、そこで朽ち果てる。大統領殿に自らを重ねる程、図々しくは無いが、その時の切なさを想えば分かり合える気がする。守るべきものがあった。だから踏みとどまることが出来た。どんな辱めにも耐え抜いた。

世界の状況を想えば、戯言をぬかしている場合では無いのだが、ロシアと呼ばれる国が行った暴挙は認められることがあってはならぬ。現代社会において、その思想が認められてはならぬ。それを打ち破るのは、世界のために、人のために、幸せを生む技術で誰かを笑顔にしようと、何事にも屈せず前に進む、若者の心だけだ。老害者は何もしない。もう解っているだろうが、決して君達の為に何かをしようとしない。だから良いのだ。独自の道を歩めるのだ。そうやってきた。これからもそうする。年齢は魂が決める。そう想う。

オタクなオンライン会議

オンラインのお仕事環境で追いついていなかったのがカメラ環境。ノート型PCに内蔵された低解像度広角カメラで「もう少し顔を近づけて下さい」と異なる会議で言われて、そろそろ何とかしなければと思っていた。宿舎においては異なる目的でそれなりのカメラ環境にはしていたのだが、職場環境は疎かになっていた。まぁ、これで良かろうくらいに思っていたのだが、何のことはない、議長だからちゃんとした機材を揃えて欲しいとの事。それで重い腰を上げた次第。

解像度を上げて欲しいという理由の一つが、こちらの手物の紙の書類(会議終了後、シュレッダー行きのもの)で「ここがですね」とかカメラ越しにあちらに送るのだけれども「不鮮明です」と言われ、小声でマイクに向かって内容を読み上げたり、何処までセキュリティというものが正しく働くのかは分からないのだが、そうしてくれと要求されるのだから仕方が無い。こんな低次元なことは日本だけなのだろうなと悲しくなりながらやりとりしていた。

昨日、それなりのカメラと三脚がやってきて、目の前に「でん」と設置されたわけだが、新しい機材は凄まじいですね。そりゃぁ、6年も前の機械が最新鋭になるのだから、エレクトロニクス、特にオンライン会議環境の世界の進化は目覚ましく、その機材にバージョンアップさせたわけだから、劇的進化が無いとつまらない。特に電子機器オタクとしては満足いく結果となった。音声に関しては既にそれなりのものにアップグレードしていたので、これで漸く、オンラインでお仕事環境が「職場」で整った。

どこまでこちらの情報を先方に伝達すれば満足されるのかということだが、画面に数名の顔が並んで、このノイズリッチな先生はなんとかならないのかななんて勝手にぶぅたれていたりしたのだが、その実、こちらも同様に思われていたのだろう。回線速度の問題もあるのだろうけれど、固定写真ですら文句を言われたのだから、それはもうカメラの責任と言わざるを得ない。あまり古い機械を後生大事に使い続けることが、許されなくなってきたとも感じる。オンライン会議を満足させる機器構成がPC販売サイトにあるが、それを信じないと社会迷惑となるなと反省した次第。機械を新しくする言い訳にはなる。それだけがオタクには良い点だ。

長ければ良いってもんじゃない

通常の国立大学ならトップ在任期間は最大六年と定められている。5代の学長にお仕えしていると良くわかる。四年で芽が出れば次の二年で花が咲き、次のトップで実がなる。それを繰り返していくことで、大学としての方向性というか、色というか、それが時代に即して更新されていく。勝手な想像なのだけれど、これが二年で交代とか、四年だったりすると、実にならないで衰退の一途を辿るのだろう。鶴舞大学は、その点、まぁ、色々あるのだけれど、何というか、実を成らせてきたのではないかな。現場に居させて頂いてそれを感じる。

改革の無いところで長すぎるとどうなるか。旧連合体であった地面が自分のものに見えてくるのだろう。旧連合体地域には、その昔を懐かしむ者も居るだろう。その領域と結託して、世界平和の秩序を壊して私利私欲を満たす行動に出る。長すぎるとろくなことはない。少なくとも意思決定と金銭的決定が同一のところにあるとろくなことはない。その平穏無事が保たれるのは六年が限界だろう。だから最長六年任期なのだと解釈している。

親玉が六年で代わったとしても、その下の組織が現金使途不明瞭なままトップよりも長い任期に置かれると、これまた不明瞭なことが起こる。知事や市長が三期、四期と継続するのはいかがなものか。最長二期ぐらいが良いのではないか。特に世界の変革が加速して、情報化社会においては、陳腐さが国民の目に入り、この地域や組織は一体何なのだとなってしまう。トップは批判などものともせず、英断を繰り返し、任期満了の頃には精魂尽き果てていないといけない。それが政治執行者の務めである。

ちょっと周囲を見渡してみると、ポジションを上げながら長期にその座に就いていらっしゃる様が見受けられる。これは退廃の前兆か、それとも独裁に何も言えない民意の表れか分からないが、短期的決断と行動が出来る組織にとっては捲土重来、いや、好機到来、集中と選択で突き抜ける好機到来である。意識を統一し、集中してことに当たるのが良い。まぁ、でも、一歩一歩なのは間違いない。慌てず騒がずが良い。そんなもんだ。

今日は新しいはず

いろんな方が「威張って」これを『やれ!』と叫ぶ。じっと見る。「あれ?それは間違っているのではないですか?」となった時こそ、実はそれが本質的に正解だったりする。まぁ、大略、言われたことは進むべき道では無いのだけれどね。そう、進めと言われた方向が間違っているのは何故か?所詮、人間が定めた方向だからである。もしも道標のベクトルが、人間以外の生命体から発せられたものであったならば?それもまた間違った方向である。

自ら進むべき方向は、自らが決めなければならない。必然では無い、必須なのである。今日が任期切れの日だとしよう。さようならとなるわけだが、クールダウンと呼ばれる日数が決められている。大企業と政府が決めたことなのだが、海外のジョブ型プロフェッショナル制度を適当にあしらっただけの、大企業に都合の良い考え方である。育てることを放棄した考え方だ。

毎日が新しいことが良いのか、永遠に同じことを繰り返しているのが良いのか。どちらも正解の気がしていている。ただ、進化している人間には新しいものが見えるのだと思っている。単にダラダラ過ごしている毎日では、明日は同じ風景になる。明日が待ち遠しく、そして新しく見えたのなら、進化した結果であろう。

何も挑戦せず、新しい明日は絶対にやってこない。今日もきつかったと、今日を振り返ることなどせず、じっと明日を考えてみる。生きているならば明日はくる。人類が生きている間くらいは、地球は回転を止めないだろう。太陽があって、地球が回るなら、明日と定義された時はやってくるのだ。未来は誰にもわからないのだ。わかった顔をしている人がいるが、同調する必要はない。昨日の自分の有り様を決めたのは自分である。だから今日もあなたの今日である。自らを刮目することだ。

茶杓にて想う

泪の茶杓というものがある。秀吉に切腹を命じられ、最後の茶会のために千利休が掘り出した茶杓だ。存在していることは知ってはいたが、実物を拝見したのは初めてだ。中部地域は徳川家のお陰で国宝と呼ぶに相応しい文化財に溢れている。コロナ禍であるから気軽にお出かけというわけにはいかないのだが、文化的学びは一生涯続けなければならない。それこそが他律の根本であるからだ。他を通じて社会に貢献させて頂くためには、自らの価値観の質を高め続けなければならない。それには自らの歴史を文化的に学ぶ必要がある。

今回の冬季オリンピックで世界から嘲笑されたが、何故、日本のオリンピアは負けると国家に謝るのか。極めて奇異であり、小生も不愉快に感じる。転んだシーンを何度でも流し、ミスのシーンで選手が泣く場面を繰り返し繰り返し、何度も流し、切ない顔のアナウンサーを映し出す。何を見たいのか?何を見せたいのか?切腹しろとでも言うのか?泪の茶杓を掘って、茶会でもしろと言うのか。醜い文化である。こんな国民性は沢山だ。

どこの国でもそうなのだが、日本は特に、江戸時代に藩が強く、その国境というものが厳然とあった。地域性が明治の世まで極めて強く残っていた。そのお陰で地域の祭りなど、民族の有り様が今に多く伝わっている。幾たびの戦争という愚かな行為で多くのものが失われたが、男女差別や軍国主義という無くなるべきものが途切れたことは幸いである。文化財の多くを失ったが、民族性が失われたわけではない。失っても良いものが「負けたら晒し者」、「負けたら悪」の風習だ。TV局は放映権を購入し、その資金のお陰で選手が出場出来ているという面もあるが、真実の放映だけで、脚色する権利まで付いてくると思っているかのようだ。

超高速で氷や雪の上で舞う、走る。一歩間違えば死である。その命懸けの肉体と精神の挑戦に賞賛を贈らせて頂き、自分も頑張らねば!と思えば良いではないか。死への旅立ちの茶杓を拝見して思ったことである。極限状態にあってなお、芸術的道具を作りそっれを理性を保ち、道を貫く。自らの日々の活動が恥ずかしくなる。そんな迫力があった。真正面から受け止められるよう、日々これ精進である。それを誓おう。

日本人って?

電子部品の供給量が低下して、単価が上がる。光熱費が上がれば、それを使って作られるものの価格が上がる。燃料費が上がっているわけだから、農産物も値上がりせねばなるまい。上がらないのはサラリーだけで、どんどん貧しい国になっていくなぁと実感している。出生数が一定の割合で下がり続け、2025年にはベビーブームの頃の皆様が後期高齢者の仲間入りして年金財政が破綻する。それも解っているのだが、目先のコロナ禍で、赤字企業の延命に40兆円も投入して、まぁ、後日、税金を上げるのでしょうけれど、こんな政治がいつまで続くのか。若者が海外に逃げていく。当たり前である。

逃げるためにはそれなりの「術」を身に着けていて、それは素晴らしいなと思うのですよ。ただ、出ていく時に日本の国に誇りを持って欲しいなと。そうなんだけど、誇りを持てる教育って出来ているのかなって不安になる。世界の歴史の中で、日本がどのような歩みを持ったのか。日本人って何?と言われたら何と答えるのか。何故、戦争したのかとかね、そんなことをきちんと説明できないと、日本人は?ってなってしまう。そんな学びの機会を提供しているのかなって?プログラミングの授業なんて出来ないよという小学校の先生だらけというていたらくだからなぁ。

美国に行って、たまたま独立記念日でワシントンのタワーが公開されていて、無料で入れるというので並んでいた。前に並んでいた『ボブ』氏が「お前は中国人か、いつ来たのだ」と問われたので「ジャパニーズだ、昨日来てワシントンDCに宿泊した」と言ったら「お前はタックスペイヤーだ、ここに並ぶ資格がある」と。図抜けたインパクトだったので鮮明に覚えている。国は税金で動くのだと。税金の獲得こそ国の力だと。それは正しい労働によってもたらされなければならないが、票が欲しくて税金をばらまく政治家諸氏だらけではいかんともしがたい。

日本にはセメントとヨウ素くらいしか資源が無い。そんなことも無いのだが、海外にじゃんじゃか販売して外貨を獲得できる資源はほぼ無い状況である。知識と能力を高め続けていかないとAIで消え去るお仕事しか得られない。スキルアップはAIにはかなわない。それは恐ろしい事では無い。知識と能力を高め続ければ良いのだ。そしてそれを他者の幸福に提供すれば良いのだ。幸福とは何かという難しい問題ではあるが、人が人として生きていくことが大切であって、その結果、国が富めば言うことなしだ。無限に国債を発行し続ければ良いという単純な事では無い。

価値化された技術は何を生んでいるのか?

技術の価値化とか言っちゃって、何十年が過ぎたことか。論文のタイトルなどを拝見すると「なになにが拓く世界」とかね、さもその世界が素晴らしく、「なになに」によってのみその世界が拓かれるということを仰りたいのだろう。そもそもその世界に入ることが喜びである方の文章だから、自己発生的な価値を他の方にも感じてねというのがタイトルになることに異論はない。研究論文なんてそんなもんだ。

それでは価値って何?と問われると何と答えるのだろう。技術経営の分野では、簡単に言ってしまうと特徴と価値という分類で語られて、技術は構成要素であって、顧客に獲得して頂いて、初めて価値と呼べるなぁんて一休さんもびっくりな語られ方をしてしまう。価値なんてそんな低次元の言葉では無いなと思っている。

昨日の続きになっちゃうのだけれど、職人さんが唯一無二の技を御持ちで、それを求めて世界中から商品で社会に感動を呼び起こす企業様が集まってくる。その技に価値を感じていらっしゃるからこそなのだが、それが「誰をいつ、どの様な場で、どのように感動させているのか?」を企業群が考えなさすぎと言うか、経営者能力の欠落と言うか。自分で言っていて恥ずかしくなるわけだが、

カスタマージャーを考える上で、そのカスタマーがその商品を獲得した前後で非連続な感動を覚え、行動に劇的変化を与える。それが価値であって、特徴の積み重ねなんてものではない。このレベル感で議論が成されてこなかった故に、つまらない日本製品ということになっているのではなかろうか。非連続な喜びをもたらす職人技を機能として捉え、そこに正しいサラリーを支払っているか?日本の浮沈はそこに掛かっている。

職人DX

海外の超高級時計を拝見すると目の玉が飛び出る。何処に向かって?プライスタグ。時刻を知ることの必要性に対して、凄まじい付加価値価格である。それなりの価値はあるのだろう。私には全く興味は無いのだが、拝んで購入される方が世界には大勢いらっしゃる。批判するわけではない。立派な経済活動である。価値に見合う料金が設定され、それに支払いが成され、その時計は支払った者の所有物となる。価値を購入するという正しい思考だ。

最近では新聞紙上では見かけなくなった下請け体質という表現。下請け企業は注文主が決めた卸値が全てであって、注文主に対して価格交渉をするなどもっての他。他者との差別化は明白なのに、その技を価格に重畳させることが出来ない。技を必要とするから注文しているのに、自己都合の利益目標を押し付けてくる。そりゃぁ求める側が価格を決めるのはそうだろうが、価格交渉の余地が与えられず、職人がプライドを持てる給与が与えられないのがこの国の有り様である。

戦前・戦後の住み込み労働は「家族的経営」で義理人情ベースのサラリー体系が組まれたわけだが、それが独立した企業においてもその流れが断ち切られず、職人側から自らの技術に付加価値を乗せる気風は生まれず、注文主はそれを認めてこなかった。仕掛けは簡単、最終的な価値を共有せず、形状だけを買い取りの閾値においておけば、作った精度が生み出す社会価値が解らないわけだから、自分達の技術に価値を見出すことが出来ない。見事な仕組みである。利益独り占めの構造は見事である。

感性や経験が買われる時代である。価値を形にしてきた職人技が消えていこうとしている。ロボットに代替される程度の技術であれば無くならなければならない。一方で、織物生地の風合いと言ったような、エンドユーザーが感激する技が消えて行っている現状は見過ごせない。ほんの一例である。廃業で失われる文化を無くしていきたい。正しい価値を世界に発信し、価値の理解者と組んで、若手スタートアップが技術承継するなどの仕組みをアシストしたい。そう想っている。

BuyNothing

メルカリって文化だなと思うのですよ。鑑定団に出てくるような凄まじい代物では無くて、自分には不要になったのだけれど、まだまだ十分に活用できるから、どなたか必要ですか?というオンライン上の向こう三軒両隣。国内外で始まっているBuyNothing運動もその一種だなと感じるのです。本当に良いもので長く使いたいものにはしっかりとお金を使って、それ以外のものには使わない、そして買わない。

経済活動云々が叫ばれるわけだけど、何でこんなにモノがあるのだと呆れかえるのだ。その昔の里山の暮らしは、それこそ里山の恵みを頂いて、それを管理することで生活が成立していた。竹がプラスチックに置き換わったころから、急速に山が荒れ、冷蔵庫が当たり前になると、食材を無駄にし始め、自動車に至っては、莫大な燃料を一人の移動の為に使う。無駄遣いの結果が経済発展だとするならば、それは是正するのが必然だろう。何も買わない生活は考えられないのだけれど、ちょっと必要だななんてものは貸し借り出来ればそれに越したことはない。

大学の実験装置や元素原料なんてものは正にそれで、都市鉱山化している小生の部屋の原料などは、お若い研究者にどんどん持ち出して頂きたいものだが、「そんなニッチな元素は使わないよ」って言われそうだな。ベテランの先生方がご退官される時に、廃棄物置き場に何往復もされて、宝物の様な装置を廃棄されるのを見て胸が痛くなる。かく言う小生も捨て始めたのは事実ですけどね。それでも新しい研究をしようとするとBuyNothingというわけにはいかない。

現在、20歳をちょっと超えた方々と、まぁ、今のご時世だからオンラインでのお付き合いがメインではあるが、話をしていると拘るところはとことんだなと感じる。生活スタイルまでは解らないが、丁寧に選択して限られた物品で生活をしているのではなかろうか。いつまでも薄利多売で、壊れる部品のサブスク商売で儲け続けようとするのは、人種転換が生じている現在、もう無理だと感じている。感性を刺激する、一品物に近い商品展開に向かわないといけない。人が人の笑顔に関わっていくことが出来るか?人が人らしく生きる本質を追求したい。

どうなるか?

15歳の立春に冠を戴き政に参加する。世の中の動きに責任を持つということだが、天武帝の時代の中国のモノマネなんだけど、僕的には正しい行動だなって思うのだ。世代という長期の区切りみたいなことを言って「今の若いもんは」なぁんて言っているからどんどこ世界から取り残される。23歳の金メダリストが若い人達に何かを伝えられたかも知れないと仰ったが、その世界観が素晴らしいと感じた。研究にしろ何にしろ、フレッシュな発想と情熱が新しいものを生み出していく。今のブラッシュアップに明け暮れる人種は、彼らのアシストに全力を尽くせば良い。その繰り返しであることが正しいと感じる。

昨年の総選挙の時に、選挙の投票率が上がらないなとか連呼したんだけど、振り返ってみると、バブルが弾けた頃、20代の投票率がぐわっと落ちているんですよ。ITバブルの頃に少し上がったけど、リーマンの後はご存知の通り。30代も似たような傾向で、60歳を過ぎた方々の投票率が極めて高くなる。生きる価値観というか、何の為に生きるのかという点において、スマホで得られる情報を道標に、自らの価値観のみを大切にするという『価値観』で生きる世代がどんどん増えていく。増えていくと言っても、日本においては人口比率は少ないけどね。世界を見ればそっちがメジャーだ。

炭酸ガスを撒き散らして、地球を温めて、後世に残すのは止めろという主張は、まぁ、そうだろうなと思う。自分達の価値観に反することは絶対に認めないということだし、仰ることは尤もだから納得もする。牛肉を食べるなとかね。大戦という状況で真の黒船にコテンパンに価値観変革を強要されたわけだけど、今を地球の外から眺めてみると、過去を引きずった人達が何をやっているんだろうなぁて見えるのでしょうね。勝手に発生するだろうスタートアップ企業を増やせとかね、そんなことやらなくても勝手にやっていくと思うのだ。過去の遺物が足を引っ張らなければね。

今のところ、緩やかだけれども確実に社会変革は起こっていて、それが数年後には臨界点を加速的に突破するんだろうと楽しみにしている。生きている期間が残り少ない方のチームに入っているわけだが、どれだけ破壊的なゲームチェンジが成されるのか。個人が自動車を持たず、シェアする時代になった途端、税制はどうなるのかとかね。そんなことを考えただけでも愉快である。5%未満の活用率の固定資産を各戸にあるなんて、そもそも論としておかしいんだよ。空気も綺麗になって、そんなに良いことは無かろう。2000年に生まれた方々が大学を卒業していく。社会の主役の転換を期待したい。