長ければ良いってもんじゃない

通常の国立大学ならトップ在任期間は最大六年と定められている。5代の学長にお仕えしていると良くわかる。四年で芽が出れば次の二年で花が咲き、次のトップで実がなる。それを繰り返していくことで、大学としての方向性というか、色というか、それが時代に即して更新されていく。勝手な想像なのだけれど、これが二年で交代とか、四年だったりすると、実にならないで衰退の一途を辿るのだろう。鶴舞大学は、その点、まぁ、色々あるのだけれど、何というか、実を成らせてきたのではないかな。現場に居させて頂いてそれを感じる。

改革の無いところで長すぎるとどうなるか。旧連合体であった地面が自分のものに見えてくるのだろう。旧連合体地域には、その昔を懐かしむ者も居るだろう。その領域と結託して、世界平和の秩序を壊して私利私欲を満たす行動に出る。長すぎるとろくなことはない。少なくとも意思決定と金銭的決定が同一のところにあるとろくなことはない。その平穏無事が保たれるのは六年が限界だろう。だから最長六年任期なのだと解釈している。

親玉が六年で代わったとしても、その下の組織が現金使途不明瞭なままトップよりも長い任期に置かれると、これまた不明瞭なことが起こる。知事や市長が三期、四期と継続するのはいかがなものか。最長二期ぐらいが良いのではないか。特に世界の変革が加速して、情報化社会においては、陳腐さが国民の目に入り、この地域や組織は一体何なのだとなってしまう。トップは批判などものともせず、英断を繰り返し、任期満了の頃には精魂尽き果てていないといけない。それが政治執行者の務めである。

ちょっと周囲を見渡してみると、ポジションを上げながら長期にその座に就いていらっしゃる様が見受けられる。これは退廃の前兆か、それとも独裁に何も言えない民意の表れか分からないが、短期的決断と行動が出来る組織にとっては捲土重来、いや、好機到来、集中と選択で突き抜ける好機到来である。意識を統一し、集中してことに当たるのが良い。まぁ、でも、一歩一歩なのは間違いない。慌てず騒がずが良い。そんなもんだ。