茶杓にて想う

泪の茶杓というものがある。秀吉に切腹を命じられ、最後の茶会のために千利休が掘り出した茶杓だ。存在していることは知ってはいたが、実物を拝見したのは初めてだ。中部地域は徳川家のお陰で国宝と呼ぶに相応しい文化財に溢れている。コロナ禍であるから気軽にお出かけというわけにはいかないのだが、文化的学びは一生涯続けなければならない。それこそが他律の根本であるからだ。他を通じて社会に貢献させて頂くためには、自らの価値観の質を高め続けなければならない。それには自らの歴史を文化的に学ぶ必要がある。

今回の冬季オリンピックで世界から嘲笑されたが、何故、日本のオリンピアは負けると国家に謝るのか。極めて奇異であり、小生も不愉快に感じる。転んだシーンを何度でも流し、ミスのシーンで選手が泣く場面を繰り返し繰り返し、何度も流し、切ない顔のアナウンサーを映し出す。何を見たいのか?何を見せたいのか?切腹しろとでも言うのか?泪の茶杓を掘って、茶会でもしろと言うのか。醜い文化である。こんな国民性は沢山だ。

どこの国でもそうなのだが、日本は特に、江戸時代に藩が強く、その国境というものが厳然とあった。地域性が明治の世まで極めて強く残っていた。そのお陰で地域の祭りなど、民族の有り様が今に多く伝わっている。幾たびの戦争という愚かな行為で多くのものが失われたが、男女差別や軍国主義という無くなるべきものが途切れたことは幸いである。文化財の多くを失ったが、民族性が失われたわけではない。失っても良いものが「負けたら晒し者」、「負けたら悪」の風習だ。TV局は放映権を購入し、その資金のお陰で選手が出場出来ているという面もあるが、真実の放映だけで、脚色する権利まで付いてくると思っているかのようだ。

超高速で氷や雪の上で舞う、走る。一歩間違えば死である。その命懸けの肉体と精神の挑戦に賞賛を贈らせて頂き、自分も頑張らねば!と思えば良いではないか。死への旅立ちの茶杓を拝見して思ったことである。極限状態にあってなお、芸術的道具を作りそっれを理性を保ち、道を貫く。自らの日々の活動が恥ずかしくなる。そんな迫力があった。真正面から受け止められるよう、日々これ精進である。それを誓おう。