価値化された技術は何を生んでいるのか?

技術の価値化とか言っちゃって、何十年が過ぎたことか。論文のタイトルなどを拝見すると「なになにが拓く世界」とかね、さもその世界が素晴らしく、「なになに」によってのみその世界が拓かれるということを仰りたいのだろう。そもそもその世界に入ることが喜びである方の文章だから、自己発生的な価値を他の方にも感じてねというのがタイトルになることに異論はない。研究論文なんてそんなもんだ。

それでは価値って何?と問われると何と答えるのだろう。技術経営の分野では、簡単に言ってしまうと特徴と価値という分類で語られて、技術は構成要素であって、顧客に獲得して頂いて、初めて価値と呼べるなぁんて一休さんもびっくりな語られ方をしてしまう。価値なんてそんな低次元の言葉では無いなと思っている。

昨日の続きになっちゃうのだけれど、職人さんが唯一無二の技を御持ちで、それを求めて世界中から商品で社会に感動を呼び起こす企業様が集まってくる。その技に価値を感じていらっしゃるからこそなのだが、それが「誰をいつ、どの様な場で、どのように感動させているのか?」を企業群が考えなさすぎと言うか、経営者能力の欠落と言うか。自分で言っていて恥ずかしくなるわけだが、

カスタマージャーを考える上で、そのカスタマーがその商品を獲得した前後で非連続な感動を覚え、行動に劇的変化を与える。それが価値であって、特徴の積み重ねなんてものではない。このレベル感で議論が成されてこなかった故に、つまらない日本製品ということになっているのではなかろうか。非連続な喜びをもたらす職人技を機能として捉え、そこに正しいサラリーを支払っているか?日本の浮沈はそこに掛かっている。