自らは育っているか?

自己を見つめて「今、これをやっていたい」とそれをお仕事に出来ている人は本当に幸せな人だ。お仕事とは、自らの機能を他の方に最大限に発揮したことによって、生きていける状態に自らを置くことが出来る手段と捉えてみたい。趣味ではいけない。自らの機能が高まって行かないから。その機能を高める手段が、他の方に育って頂くことに向けられたら更に幸せである。

この他の方に育って頂くということに関して、育って頂く定義が必要だ。育つことが偉くなるとかね、そんなことではない。育った者は、どんどんと他の方に幸せを振りまいて、その連鎖が留まることを知らず、無限に広がっていく時、それが育った状態と言える。研究者が自らの喜びの為に掘り下げた思考を学会や論文で発表して、他の研究者が新たな気付きを得て、気付いた者の持つ機能を重ね合わせてどんどんと新たな研究が生まれていく様は「育てた」定義に当てはまる。

それでは、その、育てる者を育てるにはどのような手法が考えられるか。育てる者は若い程宜しい。何故なら、育った老木はいかんともしがたいからである。中には極めて柔軟な方がいらっしゃって、70歳を超える経営者の方でも、初々しく「それは素晴らしい!」と大変身を遂げられる超人もいらっしゃるのだが、それは余りにも稀過ぎて事例にならない。将来こうありたいというビジョンを抱き、そこに向かって苦悩している者が宜しい。

どこぞの知事さんの言い訳や、それを応援する弁護士の方のお話をネット上で聞けるわけだが、どこまで真実かさっぱりわからないのだが、その言い訳を聞いていれば反面教師としては最強と感じる。ただ、それは教育手法として採用出来ない。過去の出来事は遡れないと胸を張る首相殿とかね、めまいがしてくる。不幸の連鎖と幸せの連鎖。小生は後者に関わっていたいし、これからもそこに体当たりし続ける。当然のお話だ。