ニーズこそ喚起対象

当たり前のことなのだが、技術は社会実装されてこそ価値を生むわけだ。まぁ、お金が回り出すってことだね。しかしながら社会実装を考えると、グローバルに政策・産業・市場・技術の観点から分析が必要なわけで、これは相当なインテリジェンス機能(シンクタンクという陳腐な言い方は嫌いだ)が無いと不可能である。鶴舞大学レベルでは困難なわけで、どこか出来るところは丁寧にやるということだ。

多くの日本人の方々が、海外製のスマホを活用されているのを見るまでも無く、便利さの獲得の為にはその出自は選ばないというのは当たり前である。それがグローバル市場ということで、日本人だから日本製に拘るという前提に立って商売し過ぎではないかなと思ったりもする。その昔の勢いを忘れられずに、グローバル市場に日本製品が獲得できる椅子があると思っている。どれだけそんなところがあるのだろう。超高付加価値製品製造に挑むしか無く、すると素材から最終製品まで、全てが要素研究から開発、そして製造まで一気通貫で考えねばならぬ。当然、市場で価値を受け入れられるものであるのは間違いない。

そうなると、陳腐な技術では駄目なわけで、陳腐では無い技術ってどこにあるのかと言えば、これが案外あるもんだと考えている。何処にとは言わないが、丁寧に探り出す仕掛けを作って、社会のニーズを喚起できれば、行動する産業界メンバーもゼロでは無いと思いたい。それが本当にゼロならば、我が国は直ちに高等教育など辞めれば宜しい。恐らくはそうは思っていないと信じたいが。社会的課題、社会的要請は沢山あるのだ。ヘルスケア、食糧等々、きりがない。限られたGDPをどこに分配するかだが、もう、平等なんて必要ない。良い依怙贔屓国家になるしかない。

そうなると、政治家諸氏は票を失うから、そんなことにはならないんだけど、最初に取り組むべきは何なのと、税金の使途を判断できるのは政治家諸氏しか居ないのだ。大学の研究はフォアキャスティングに陥りがちだが、ここもバックキャスティング的にテーマ設定をしていかねばならぬ。とことん定量的に挑戦するからこそ、差別化が生まれ、社会にニーズを喚起できる。喚起したニーズの質が高ければ、シーズ研究の質が上がる。金融はそこに融資する。正しい経済の流れはものづくりからだ。そう思う。