茶摘み

少し長めのお休みを頂いて、読めていなかった書物をむさぼったり、久しぶりに近所の里山?を歩き回ったりと、少しは人らしい活動が出来たかなと感じる。ロングバケーションは無い国だが、そうであるならば、ショートが2か月に一度くらいあればよいのにと思ったりする。祝日がもう少しあってもよさそうだが、講義が出来ないなどの苦情が来そうだが、それはWebツールで解決すればよろしい。

五月連休が終わると、夏休みを目掛けることになるわけだが、長期の天気予報を拝見するに、猛暑が長く続くよう。世界の豪雨や暴風雨のニュースを見ているのだが、それが当たり前のように発生している様に、これが本当に人類活動の結果だとすると、それだけのエネルギーを無駄に垂れ流していたのだなと、エネルギー保存則を思い出して、人類の凄さを感じるのだ。こんなことが出来るのだなと呆れかえる。

どんどんと増え続ける人口だから、それを養うためには更にエネルギーの投入が必要になるわけなのだけれど、信じられない省エネ技術などが飛び出してきたり、自然共生経済という概念の導入ももたらされたりして、体力だけではなく、知恵の活用も見られるところは少しは安心したりもする。呆れたり安心したりと忙しいが、休日中に恒例の茶摘みをやって、気温の上昇を感じた。

例年に比べて明らかに芽の伸び方が違った。葉っぱが大きく、茎も伸びて、嵩は多いのだが、新茶のなよなよ感がなく、しっかりがっしり(それ程でもない)という感じで、農家さんなどは現場を見ながら収穫をなさっているのだろうけれど、八十八夜みたいな伝説を面白がっている程度の民からすると、定点観測的な収穫となって、例年との違いに驚かされるのだ。人類の文化と経済活動。その有り様を考えないと、文化を全部捨てないといけないような状況に陥るのではないか。そう感じた茶摘みである。