見せかけの正論

社会の声を聴いてみましたと、マスコミをはじめ、様々な方々が仰る。数名からお話を聞きましたとか、誰誰に聞きましたという、狭いけれど定量的な情報は傾聴に値する。日頃、深いお付き合いがある方からの情報であれば、その発言のバックに何があるのか、断片でも分かりますからね。「誰、それ?」となるともう不特定多数からの情報と同様で、「情報操作されている」感満載になる。

情報の質というものなのだが、ネットに書いてあるというのと、広辞苑に示されているということでは質が全く異なる。広辞苑と言っても「何版?」というところまで明確にならないと、今は意味が違うぞとなってはしまうが、それでもその情報の信頼性は高くなる。と、言うか、客観性が出てくる。

AIネタが最近、自分でも増えているなとは感じているが、自らの存在意義が消されようとしている最中であるから、増えてくるのは必然と諦めてほしい。とっとと楽になりたいという気持ちの裏返しというか素直な表現かもしれない。AIさん、どんどん賢くなってくれというのが本音である。なんでそんなことで質問にくるのだと、思考を断絶される苦痛には耐えられない。

声が大きい人、一見、弱者側に居る人の意見は、正論となりがちだ。「私はそうは思わなかった」と言われて窮地に立ったこともあったが、「私はそう思った」のご意見に救われたこともある。知識をバックに迫ってくる人の話は半分も聞けない。知識を持っている人は迫ってこない。何故なら「その知識には欠けているところが沢山ある」と知っているから。目で見ても虚構だったとなることも多い。気を付けなければ。