造られるものは変わらない

当たり前なのだけど、社会が価値として認知する技術って、そのレベル感は永遠に上がり続ける。古くなれば骨董的価値が上がるというものではなく、工学として、人にとって方便であるもののレベル感の事である。骨董的ものであっても、例えば焼き物の釉薬にしても、その精製技術や混錬技術など、原料に近いところにおいては、近代技術の活用によって精緻化出来るものである。昔は良かった、この不純物の混じり具合はなどと言って、偶然の出会いに作り手と買い手が感嘆しているようでは先は無い。より良いものを求め、そしてそれが叶わない時には淘汰させる。その厳しさが必要である。

話は文芸の方にずれてしまったが、本題の機械というかものづくりの方に移ってみたい。電子ビームとか、プラズマとか、イオンビームとかレーザーとか、まぁ、近代モノづくりツールは周期律表的に進化しているわけだが、こと「形を造る加工」という点において、まだまだ刃物の地位は揺るがない。何でかということをイオンビームで考えてみますが、我々が見たり触ったりする触感のあるものは1立方センチメートルの中に約十の22乗個の原子がある。一方、イオンビームは、まぁ、馬力がある無しがあるわけだけど、1秒間に十の15乗個程度の原子をぶつけることができる程度だ。けた違いに少ないのだ。入る深さも表面から0.1μmのレベルだしね。

例え1mmずつ削っていくという点においても、刃物に叶わないというのはそういう事だ。ではその刃物が進化したかということだが、刃物の進化は削られたものの評価によって成されなければならないが、そんな研究は殆ど無い。何故か?刃物そのものがダイヤモンド砥石で削り出されて作られているからで、それは戦前から変わっていない。加工時にダイヤモンドがミクロに欠けていき、その際に莫大な乖離エネルギーが加工される側に雷の様にわたっていく。数百ミクロンの欠陥が出来るわけで、それは加工を始めると、刃物の欠けに繋がっていくわけだ。だから、刃物をダイヤモンド砥石で作ったら負けなのだ。しかし、それは続いている。安いし早く刃物が出来るからね。

ということは、そんなぼろぼろの刃物で自動車等を作っているということが延々と変わらずに行われていて、それ故に走行中に車軸が折れたりするわけだね。それがちっとも変わっていないところに、モノづくり業界の停滞があるのではなかろうか?しかも刃物が高価なものだから(良く出来たビジネスモデルだね)使う刃物の総量を減らしたいとかね、そんなご依頼が来るわけだけど、削って作られる部品の寿命を長くしたいとか、より美しく仕上げたいとか、そんなご依頼は来ないわけですな。来年も日本発のものづくりはそんなレベルでありまして、なんとも夢の無いことだなぁと残念に思う私であります。