我慢と諦め

挑戦を許さないのは誰だろう。あれも駄目、これも駄目、気に入らないから駄目って、その末路は我慢。我慢ならまだ次がありそうだけど、実は諦め。諦めるから外からは忍耐強いと勘違いされる。忍耐強いのではない。諦めるのが早いのだ。いや、もっと言えば怒られる前に諦めるのだ。打ち明ける前に嫌われる青少年のようだ。今の青少年は違うのかもしれないけどね。

政治離れと言われて久しいが、結局のところ、何がどうなっても数人の我儘が国民の声の如くに鳴り響き、結局そっちに向かって動く様を延々と押し付けられていると、誰がやっても結果は同じだよねと、これも諦めの一つなのだと思う。有権者の一票の重さは2倍以内なら合憲だとか、失神しそうな解釈が司法から示される。国民一人一人の重さが違うと司法が認め、それを後ろ盾に立法も行政も突き進む。すげぇ国だ。

鶏と卵のお話になっちゃうのかもしれないけれど、声があっても上が動かないって、民と支配者の在り方の歴史を辿って行くと何処まで遡れるんでしょうね。知恵を分かち合い合議でいろいろ決めた形跡がある出雲や常陸の風土記の記載があるから、やっぱり卑弥呼の時代くらいからなのかしら?そうだとすると、もう、DNAに刻み込まれた諦めの境地ということで、どうあがいても仕方が無いのかもしれない。

受講登録はしていないけど単位をよこせみたいな、利己的我儘は主張するけれど、社会的影響力がありそうな問題は馬耳東風で興味すら持たない。諦める程、人生経験が無かろうが、最初っから興味が無いのでしょうね。決して我慢強くは無く、諦める程のことも持ち合わせていない。コロナ禍になってもGoToなんとかに申し込んで旅行に行ったり食べに行ったり。そろそろ小生も諦めつつある。それでも身の回りに対しては諦めたりはしない。何処まで続くのか、精神論になってきた。