改革へ

名古屋にやってきてずっと聞かされてきた改良と改善。損得みたいなもので、以前より良くしよう、悪かったところを善くしようということですな。それはとても重要なことで、基本的活動であることは間違いない。しかし、フォアキャスティングの視点で過去から今、そして未来を考える時、経験をベースに次に何をしようと言う活動だから、先細りは必然でしょうね。決まったパイを食べあうのだから、食べる速さを増したからとて、社会が獲得する幸は変わらない。いろんなところにそれはある。

リーダー同士の会話の中で、横に座っていて強烈に記憶に刻まれたことがあって「研究・開発なんて簡単に言うな!研究は出来るだろう、でも開発は出来ないのだ」。もう一つ、「安全・安心なんて簡単に言うな!安全は当然、安心は永遠の課題だ」と。共に既に亡くなられた方が今もご存命の当時のリーダーにぶつけたお言葉なのだけれど、そこに居合わせて本当に幸せな経験だったと感謝している。カバン持ちの役得である。

教育の仕組みにしてもそうで、経験を重ねた者の言い分の平均値をとると、確実に改良・改善の思考の方向に向かっていく。絶対値では無くね。小生の親などは事あるごとにそらんじていた教育勅語を語って聞かせたものだが、それはある意味絶対的基準を満たそうとするものであって、バックキャスティング的発想だったと今は感じる。到達しえない理想から今ある教育を語る。これは所謂、改革の姿勢であって、昨日の自分ではなく、明日あるべき姿を描くものだ。

個人的理想と社会的組織のあるべき姿とは異なってくるのだが、間違いないのは、今、30歳の方は20年後に50歳となっている。きっと「この老人が何を言うか!」と思っているだろうが、必死に頑張ると20年はかなりの経験を積む、いや、積んでしまう。しかもそれは30歳の方が10歳から30歳までの多感な時期における社会の20年間とは異なる質のものある。もしも改革に挑戦できる社会を望むのであればやんちゃな20年で得た感性を、老人の機能を活用するべく大きな声を挙げねばならぬ。老人はそれを護りつつ、安心を担保せねばならぬ。改良改善から改革へ。生き残るにはそれしかない。そう思う。