情報確度

TVやネットの報道が一致していたとしても、それが正しい判断材料になるとは限らない。有識者ヒアリングみたいなところに呼び出されて、お偉い方の旗の振り方を目の当たりにしてしまうと、報道は見せかけで、一面だけをクローズアップしているのだなと実感出来る。見ると聞くとは大違いという奴だ。所詮、報道は加工品であって真実では無い。いや、伝え聞いたものに真実は無かろう。発生しているものを「見た」り「体験」したりして、その第一人称だけが自分にとって真実である。客観的になど見ることは出来ないから、報道は全て嘘を含むということになる。含まれた嘘が限りなく少ない報道がスポーツ報道ということになろうか。これとて、怪しいかもしれないが、金メダルを誰が獲得したかなんかは正しいしね。

最初から虚栄と大法螺の選挙時における演説なんかは、これはこれで面白く聞いていられる。どうせ、言ったことはやらないことは分かっているので、少なくともこんなことを問題視している人がいて、それなりにお金を動かしているのだなということは分かってくる。逆に、公約なんてムキになって叫んでみても、大国が小国にミサイルを打ち込んだ時点で全てがひっくり返りますからね。局所核なんてものが、本当に使われでもしたら、コロナ禍どころの騒ぎでは無い。でも、そんな今だからこそ、2~30年先を見据えてやるべきことをやる思い切りが必要だ。いろんな意見がご尤も。しかし、人の社会の真実というものがあろう。他人の命を直接・間接、奪ってはいけないということを前提に置かねばならない。

なんらか検討するのであれば、仮説検証では無いけれど、その仮説を何故置いたかというところに、前提条件が必要となってくる。その前提条件を考える上で守られるべきは、関係者に届いてる情報の質が等しくて、しかもそれが真実に近いこと。それが狂っていると、何をやっても胴元が勝つことになって、挑戦者は常に敗北を食わされることになる。公募の胴元が要領を後悔して、それを解釈して申請書を作り込むわけだが、多くが、出来レースで、血を滲ませた努力は報われない。それでも自らの行動は真実であるから、それを前面に押し出すのがだ、受け取る側は異なるゲージで評価してくるから、そのボタンの掛け違いは正されることは無い。

昨日、書斎で物書きをしていて、「暑いな」と感じて温度計を見てみると、室内で28.5℃を示している(14時頃)。この温度計は高校生の時に、気象庁の購買で購入したものなのだが、これなどは信じて良いものとしてずっと身近に置いている。疑っても仕方が無いし、別途購入した湿度計にくっ付いている温度計と同じ温度を指し示すから、まぁ、大丈夫だろうと思っている。情報源はシンプルで、疑いようが無いものが良い。報道などは、所詮、時の為政者のプロパガンダによってどうにでもなるということが証明されている今、自分のやろうとしていることは正しい事なのだと、自信を持つことすら難しい。だから単純なところから進んでいく。それしかなかろう。