京都女子駅伝を見た。力量は等しくとも、挑む気持ちが違ったなと。どちらがどうという事ではない。明日、競い合ってみたら逆の結果になるだろう。この瞬間に対する自らへの問いかけ。それこそが挑戦と言うことと思うのだ。何も足さない、そして引かない。純粋な自らの今を出す。それは負けた自分を想像した結果生まれる恐怖や、人々からのそしりという、日本人であると切り離せない因習との戦いでもある。それに挑み、勝ちに行った姿勢に感動した。今年、オリンピックからずっとスポーツが続いているが、一番の感銘を受けた。純粋な挑戦。美しい。
落ちこぼれても良いではないかと口では言っても、周囲の目線が気になったり、まだ見ぬ将来にみじめさを感じて、今にしがみついてしまう人の何と多いことか。自分が思った評価をされなかった。結局のところ、どれだけ自らの信念というか、自らの価値観を貫けたかということなのだと思う。吉田松陰師が命を懸けて未来を創る人を育て、そして、その信念を暴力が踏みにじり、そこで育った者が、後の暗殺など様々な暴力に加担したわけだが、それは師の願ったことか?
2022年において考えれば、残り一週間となってしまった。来る日曜日には次の年の始まりだ。ただ、日本古来の神の暦からすれば、節分まで今年であって、約一か月ある。反省する機会を二度頂けて、日本人はなんだか都合が良いなと思ったりもする。自らにとって本当に全力で毎日を過ごした年であったのかと、反省し、残りの日々、ひたすら挑戦し続けねばならぬ。
組織変革を拒む若年層に足を捕られて、そういうことかと思ったりする。護ることは自らにとって容易である。挑戦は恐怖である。その恐怖に打ち勝つには、自らの理想が自ら生み出されたものでなければならぬ。人から学んだきれいごとでは、暴力的な今を護る言葉に打ち勝てない。異なる明日の中に居る自らを考えると、それは恐れおののくのは仕方が無いかもしれぬ。その時、常に思わねばならぬ。自らの明日は、自らの心がゼロから数字を産むのだという信念から創り上げねばならぬ。創造とはそういうものだ。後数日、考えてみては如何か。他人のせいにしている自分が居ないか。それは後悔と冥土への一里塚だ。