DXの本質

デジタルトランスフォーメーション(DX)ってどんな世界なのかなと考えると、それは人間が作業をしない世界であろう。思考に特化して、その人にしか出来ない事を、その人の価値観で、他者に提供している状態と考える。決まりきったゴールに向かって何かを成している人はご退場と言う世界だ。IT技術が作業を駆逐してくれる。こんなに素晴らしい事はない。運転手殿が不足するから、凄まじい数の荷物の配送が滞ると先走った心配をするよりも、自動化してそうならないような世界構築の為には何が必要なのかを考えれば良い。

一度も着られずに捨てられるアパレル洋品が、製造された商材の90%にも及ぶ現状を考えると、作らなければ資源もエネルギーも輸送コストも要らないということになり、とんでもなく省エネになる。正月用品だってどれだけ廃棄されるのか?その分、作らなければ失われない命がどれだけ増えるのか。きっちりと消費する分だけ製造していく。しかもそれは自動であればよろしい。それをとことん追求するのが工学だ。

今ある状態が良いわけではない。自動化社会を実現するためには、人の生活様式が自動化にある程度寄り添わないと非効率と言うことが出てくる。ヨーロッパに旅をすれば、人の生活エリアとそうで無いエリアが明確に別れていて、自動化にはもってこいだと感じる。一方、我が国においては、いかなる山奥においても、突如、住まいが現れる。どうやって生活されているのだろうと悩むところだが、これなどは税金の高騰に拍車をかける一つの要因である。山川の保全に携わる人が必要だと必ず美辞麗句が並ぶが、里山を一人、二人で整備できるはずも無く、それは偽善の発言である。産業として関わらねばならぬ。

人的資本を高め、お互いが理解し合い、尊敬し合うところから国家を再構築せねばならぬ。そう思っているのだが、汚職政治家は威風堂々と居座り、清潔の頂点と思っていた皇室ですら悪しき噂にまみれた状態で嘆かわしい。国民の象徴とは、国民がこのように清々しく生きるべきだという見本で会って欲しかったのだが、どうやらそれも続きそうにない。如何なる年齢にあっても学び続け、何をさせて頂けるのかを真剣に考え続けねばならぬ。そんな時代である。