目を開いているのに何も見えない。手には壁の感触が伝わる。手を伸ばして天井を感じれば首のすくみが戻る。暗闇の中で歩むことで精神は集中し、無心にただ歩くだけの世界が広がる。恐らく無限に広がっている闇は目の前の暗闇と静寂とだけで精神世界に創り出すことが出来、その中で一心に歩く。捕食者の存在に怯える遺伝子が組み込まれていると言われている人類であるが、それを体験できるのが真の暗闇である。
日頃、精神的重圧に押しつぶされ、ぺちゃんこになりながらも気合で膨らんでは、またぺちゃんこになる繰り返しなのだが、それも自らの気の持ちようである。真っ暗闇に降り立って、そこで手探りで進んでいけば明かりを得られる。その明かりを得られない事実があるとしたら、無限の闇が続くとしたら、その辛さはどのように解放されるべきか。
ひょっとすると見えないことで得られるものが沢山あるのではと思ってしまうのだが、見えるからこそ思い煩うことを大切にしないといけないのだなと、神妙な思いを抱く。何も無いのだ。しかしそれは見えるものが何もないというだけであって、歩く床も光を遮る壁もあるのだ。手に触れる感触もあるのだ。目から入る情報が如何に自らを縛っているのかを実感できるのも暗闇が持つ特徴なのだろう。
延々と続くかと思うと薄明かりが見え、真っ暗闇から明るみに出た時の安堵こそ、真実の想いなのだろう。戒壇巡りと呼ばれる行であるが、つい先日の祖父江善光寺に続き、関善光寺に出掛けて参りました。紅葉が日に映えて、七五三の祝いの着物がかわいらしく、その中で暗闇に出会う意味は深ろうかと、出掛けるのも悪くない。近くにあって初体験の関善光寺でありました。