小生がガマの油売り大学に入学させていただいた時に「教うるは学の半ば」という講演を聞かせて頂いた。教育大学の大先輩の講演であった。言葉そのものはことわざ辞典に掲載されているようなもので「人に何かを教えるときは、半分は自分にとっての勉強にもなる」という、文字面通りのものだ。
その講演は違った。「どんなに学び抜いたとしても、伝えることが出来るのはその半分も無い。だから100教えたければ無限に学び続けねばならぬ」という後輩へのエールであった。如何に学び、理解したとしても、伝えている段階の究極の緊張感は、自らに新たな疑問を喚起する。それが無い者は教壇という人より20cm高い段の上に立つ資格は無い。あの場所は怖い。心底そう思う。
であれば、ものづくりはどうだろう。研究はどうだろう。イメージしたものを創ってみる。それが出来損ないであることを知るのだ。自らの手を動かして創るから知るのだ。自らに何かが足りないことを。そして、自らの理想はより高いはずであったことを。「取り敢えず」という言葉を使ってはならぬ。それを使う者はものづくりをしてはならぬ。
相手が100を言えないのであれば、聴き手には相手に伝達力を提供する必要がある。それには共通言語である比喩を使いこなす力が必要である。人との共生に必須となるのは聴き力、伝達力、比喩力であるのだが、永遠に磨き続けねばならぬ力である。まだまだ半ばにも至らない。精進あるのみである。