雨に想う

少雨の夏が過ぎたら雨ばっかりの秋が来た。遠い秋空を仰ぎ見て思索に耽ることも無く、傘で空を遮りアスファルトの道路の水溜まりを避けながら、冷たくなっていくズボンの裾に嫌気を感じつつ日々の会議を想う毎日だ。毎日快晴なんてことになったら、要するにそこは砂漠なのだろうから、雨は恵と感謝しないといけないとは解っていても、降るなら真夜中にまとめて降れよと、叶わぬ思いを心の中で愚痴ってみたりもする。

ただ、考えてみると、雨が降るというのは重力に従っているということだ。我々とて重力があるから歩行できている。無風ならば雨は地球の中心を指しているのだ。物凄い物差しだ。ふらふらする人間よりよっぽど偉い。侘び寂びというところには到達してはいないが、心の中で偉いと思い、成すがままに地球に引かれているさまを寂びと捉えると、雨を見て侘び寂びを楽しめるかなななどと笑ってしまうと、もうそこには侘び寂びが無くなってしまう。先人の人生観の高さに脱帽するのみである。

うなだれて歩いていると気分も滅入る。懸命に努力しても結局は短期決戦で長期の努力が消えてしまうプロ野球の仕掛けにも滅入る。その昔は野球小僧であったが、今のプロ野球の仕組みのつまらなさには呆れかえる。頑張って一番になっても後から来た奴らに上前を跳ねられる。親方日の丸にはよくあることだが、こんなことで本当に良いのかなと、だんだん興味も薄れてきている。良い執念が実る、そんな社会が嬉しいと思っている。そうなるように努めようと思う。

最後の剣客と呼ばれる榊原鍵吉氏の墓所が四ツ谷西応寺にある。明治になっても刀を振り続け、明治天皇が趣味で開いた鉄兜を刀で割らせるという無茶苦茶な貴族主義的興行で、全国から集められた元武士3人の中、たった一人、鉄兜を割った人物。成せばなるかもしれない。成さぬと捨ててしまう人が多い中、何かを貫き成してみる。成してそれまでの努力は報われ、努力だったのだと当人は納得できるだろう。雨も降りたくて振っているのではなく、地球環境がそれを求めるから振るのであって、人間の都合などどうでも良い。いや、飲料水、食糧、諸々全てにおいて雨は有難い。有難いのだが、やっぱり夜中に振ってくれよと傘越しに空を見上げて苦笑いをした私であります。