挑戦と失敗

挑戦と失敗は対である。失敗との対は成功と考えてしまうが、小生は挑戦と考えている。今の有り様は先人がその時の常識で創り上げてこられたものだが、それはその時の挑戦の結果であって、それすら、本当に正しかったのかどうかなどは、未来を基軸にしないとわからない。博士後期課程進学者を増やすにはとあれこれと考えてきているわけだが、現状においてもかなりの支援策があることが解って来た。立法府に居ながら「わかってきた」という位だから、学生諸君には全く見えなかったのではないか?

ルールはあるのだが、そのルールがきちんと納税者に届いていない。これは何も大学に限ったことでは無いのだが、少なくともそれに気付いた以上は対処せねば気が済まぬ。あちこちから槍が飛んでくるがいつもの事。DX砂漠においては上方の掘り起し、発掘から開始しないといけないところが極めて辛く、私物化された情報を明るいところに出さねばならぬ。何故、こんなことになっているのだろうと悩まないわけでは無いが、悩みながらも進まねばならぬ。

過去の実績に執着、固執して「こうするべきだ」と迫られるわけだが、いや、未来をこうしたいから挑戦するのだと言ってみても、そんなことは過去の実績からするとドン・キホーテだという。大いに結構である。失敗と言っても、自分が描いた理想のイメージとずれたとしても、活用して欲しい皆さんが笑顔になればそれで良いのだ。だから理想は広く持たねばならぬ。ピンポイントを狙うと擾乱によって元の木阿弥に戻る。それは避けるべきだ。

有識者は大学改革は全く進んでいないという。いろんな理由があろうが、何が出来るのかを考えて出来る事をパッチで付加し続けた結果である。原資が必要であれば、それは無謀な予算建てでは無く、無くすところは無くして、その後、建て替えとなる。無くされて槍を持つ方が多いが、受益者は未来の者であることを忘れてはならぬ。受益者がどんな力を未来で発揮して頂きたいのかを考えねばならぬ。それは狭い世の中では無い。世界の中でどうふるまって頂けるかを考えねばならぬ。5年が勝負だ。