討論考

ずっとそうなのだけれど、人と人とのお付き合いで聴き力が一番大切かなと思っている。思っているだけでそれが自身、しっかりと出来ているかと自分を見返すと、まぁ、完璧に出来る筈はない。そこそこ鷹揚に構えて意見を拝聴させて頂くわけだ。馬耳東風であってはならない。また、馬耳東風の方の意見に耳を傾ける必要も無い。それは単に時間の無駄遣い。自分の胸に溜まった不快感を吐き出させてくれという注文が殺到するのだが、それはどっかに穴を掘ってやってくれと言いたい。

ご意見を拝聴させて頂くのだけれど、その時に「この人はどんな経験を積まれた結果、このご意見に到達しているのだな」と探らせて頂いている。会話の中でどのタイミングで割り込んでこられたとか、特に熱心に繰り返される単語とかを聴き落とさずに拝聴する。するとそのご意見が景色となって表れてくる。自分事に置き換えては絶対にいけない。そして、良い悪いの判定などは以ての外である。経験から来るご意見なのだなと拝聴させて頂くわけだ。

すると疑問が湧いてくる。この方のご意見の根底にあるのは喜びなのか悲しみなのか、陳情は大抵、怒りの感情が発生源であることが多いのだが、それを身構えてしまうと、正しく受け止めることが出来なくなってしまう。あくまでもお地蔵様の如くに拝聴させて頂かなければならない。ご意見を総合して「これが主張ですか?」と討論を進めると「そう!」となるか「違う!」となるか、どっちかなのだが、いずれにせよ、ご意見の次に期待されるアクションが想起されるわけだ。そのアクションはご自身も関わるべきアクションになることが多いから、一方的なアクション提案であってはならない。

ここで難しいのは目の前にいらっしゃる方の価値観を取り違えてはならないということだ。当該事業所においてDXが一向に推進されないのはけしからん!というご意見に対して、言い訳をするのは以ての外だし、途中経過もご法度だ。あくまでも目指しているゴールをお話をさせて頂き、そこから「この方の価値観はこっちか?」と探りながら討論を進めさせて頂いている。一事が万事で、一方的に物事を押し付けて来られる方には一般解しかお答えできない。特解の討論は美しいが神経をすり減らす。価値観を探るご意見の拝聴。なかなか難しい。