自らに感動せよ

感動無き人生は虚ろである。魂が激動し、来世への、より高い試練の座席を与えられる感動こそ、生きる意味である。これが苦しいからやらない、これをやりたいからやる。それだけの人生を送っている者は、決まって他者の悪口で自らの正当性を語る。おぞましい限りである。感動出来る心を持っているからこそ自らがあり、自らがあるからこそ次の一歩を踏み出せるのである。自らとは他律機能である。自らが生み出した何事かが、他人を通じて社会を変革していく機能である。

ギブアップの声を出そうとも、前に進み続ける姿は美しい。言い訳をもってギブアップする者の、何と醜いことか。そんなことはどうでもよろしい。地獄の業火に焼かれ、肉体から魂が抜けだしたとしても、抜け出した魂が肉体を引きずり、起こし、そして勝利の美しき笑顔で飾られる。それこそが努力であり、感動である。感動は自らに成すものである。

何度挫折しても良い。そこには他者への批判は必要ない。挫折は自らの行動であって、誰の責任でもない。自らにしかきっかけと結果は無いのだ。思ったようにならない。当たり前である。宇宙の中の一つの命の思った様な、願った様なそんな陳腐な狭い出来事が発生して良いはずはないのだ。灼熱の太陽が容赦なく照り付け、体中の水分が蒸発しきり、最後のうるおいである魂までも肉体を離れたとしても、前向きに生きる一歩を踏み出す者の魂を、死神は獲得できない。

今があるなら、過去があったはずだ。自らが挫折と定めたことが過去に在ったことだろう。しかし、今があるのだ。明日があるのだ。言い訳など、なんの意味があろう。過去に足を引っ張った者への愚痴などどんな価値があろうか?自らへの感動の価値を下げるだけである。偏見の海を満たす者の呪いに足を捕られ続けるのか?君は前に進むのではないのか?過去の挫折の理由は自らの力不足だけである。他者の呪詛に引きずられる必要は無い。自らの不勉強と「だから出来なかった」という言い訳だけが自らの感動を阻むのだ。自らの弱さを刮目せよ。それだけだ。