比喩

君はバラより美しいと照れずに言えたら大したものだと、布施明さんの熱唱に照れ笑いをしたのはもうかれこれうん十年前だ。流れた歳月は大したもんだ。いや、何も恋だの愛だのを語る気持ちはさらさらない。鬼のような形相はまだしも鬼の首を取ったようと言われても「取ったこと無いなぁ」と苦笑いだ。ようは比喩である。この比喩というのは実に頼もしい言語能力だと、昨日、帰りの新幹線でふと思った次第。

定量的に表現してくださいと、審査長としてお勤めさせて頂くわけだが、トップレベルのお話を定量的に聞かせて頂くと「ほほぉ」とは思うのだけれども今の生活がどんだけ素晴らしくなるのか想像が難しい。そんなとき、「風になれます」くらいのことを言ってもらえると、「おぉ、なるほど!」と技術のステップアップを実感出来るのだ。だから『バラより美しい』というのは実に名言だなと流れる街の夜景に赤みが差したような、例によって「それから」を楽しみながら実感したのだ。

日本人のわびさびとか大和心とか、「紫立ちたる雲のほそくたなびきたる」など、比喩の権化であり、日本人は自然の中からいきいきとものの喩を磨いてきた民族であると思う。情景が浮かべばそこで生まれる価値を実感でき、それ故に幸せの物語が見えてくる。物語が見えるという表現そのものも喩になっているところが何が何だかという感じもしないでもないが、そんなストーリー性こそ企画力によって見出されるものでなければならないと、自らを奮い立たせる。

幸せの物語こそ、科学を技術として具現化させる拠り所である。何か論文ネタがあったらそれは人の役に立つだろうなどと短絡思考も甚だしい。スタジャンに曲がる有機ELディスプレーをくっつけてデモしている姿を見て、いよいよカメレオンになるのだなと愉快に思った。プレデターになるのかはどうかは分からないが、既にあるもの、あったら良いもの、それをイメージ出来る表現力。それがものが溢れた社会に求められるコーディネータ力である。取り敢えず今日はここまでとしておこう。