憂い

先週の金曜日の夕方、鶴舞公園を歩いてみると、一分咲きと言っても良い程の開花。今週末の卒業式では見事に咲き誇りそうではあるが、太平洋からの湿った空気の流入で、どうやらお天気はご機嫌斜め期間に入るよう。久しぶりのお花見の宴も、晴れている時にどんどんとやって戴きたいと思うところだ。再び、コロナ禍が進化して、とんでもないことになる前に、大空の元、うっぷん晴らしをされるがよろしい。

昨日、ぽかぽか陽気に誘われてステアリングを握ってみる。ずっと書類との戦いで、長期遠征などは出来ないから、ちょこっと以前から気になっていた場所を訪れてみた。小一時間で、名古屋市からはそれらしい里山に訪れることが出来るので、有難いシチュエーションだと感じる。小生の在からは東に向かうと混雑しないから、気軽にとなると東に向かってしまう。直ぐに名古屋市から外れることができて、車の密度がぐっと下がって有難い。

水を張る前の田んぼに人が群れていて、何かと思って目を向けると二頭のヤギと子供たちが戯れていた。乳の為に飼われているのだろうか?ガキの頃を思い出して、嬉しくなった。こんな活動が未だにあるのだと、少し、気持ちが明るくなった。電脳では無くリアルな世界を楽しんで欲しい。それが何時まで続くやらである。地域の子供と大人のふれあいのイベントがあちこちであり、それに紛れながら、久しぶりにカタクリの花をめでた。

猿投にカタクリの群生があるが、そこを訪れたのは二十年も前のこと。すっかり忘れていたが、思わぬところに護られている楚々とした姿に、暴挙に破壊されねば良いがなと、心配になってしまった。実際のところ、ご老人方が携帯を身構えて、足元の草花を踏みにじる。その有り様に、亡国という惨状を見る。TVではご近所の国が相変わらずミサイルを放ち続けている。満開の薄墨桜の古木が見事で、いつまで愛でることが出来るのかと不安になった。今週も慌ただしい。一秒を大切に活動したいものだ。