遥かなる教育者

教育者と言うわけでは無いが、職業関係を問うアンケート欄には教育関係にチェックをしている。頭の片隅に教育者であると何処かで思い込んでいるに違いない。思い込みは必要だと思っていて、自己暗示と言うか、そう思い続けていると、いつかはそうなると、何処かのお坊さんが言っていたのを鵜呑みにしている。そのうちそうなるだろうという事で、今、そうなっているというわけでは無い。

教育者って何だと聞かれれば、それは生徒の目を通して、自らが発信している内容に納得できていること。そして生徒はこちらの目を通して、伝えていることに納得を得ていると体感することが出来る者と答える。相互の立場において納得できる話術を駆使出来る機能が必要なのは言うまでもない。そんな名人芸には遠く及ばないのだが、目指しているのは間違いない。

上述の定義を用いているのは、教育と指導はまるで違うからだ。指導は自らが有する機能を、それより劣る機能を有した者に上意下達することにより、受け取った者が指導の通りに実践できるレベルに到達することだ。受講者が、到達目標に達することで指導の効果が測られるわけで、指導者側から計測可能な達成状況を想定出来る。

教育はそれは出来ない。何故ならば、教育者側と受け手の側の、双方の知恵が「教え」に重畳するわけで、世代を超えた教師と生徒の関係においては時代背景までもが知恵としてお互いが受け取ることになる。教える側も受ける側も、それぞれが自らの内省を伸ばしながら教育は成される。教育は一生であり、指導は一瞬である。教育者は授業が出来るが、指導者には広義しか出来ない。これが解らない者は教壇に上ってはならない。そう思っている。