食糧問題を栄養不測の観点から見ると、トマトとか特定の栄養素を獲得できる作物を、機械的に増産させている取り組みは、単に農業を自律的産業化させるだけではなく、生命維持の観点で正しいのだろう。人口の適正化とか、その為にエネルギーを使うとか、負の視点での指摘は簡単だが、今の環境を作り出してしまった後の祭り的な対処であっても、次への経過点として、そうあることは必然なのかもしれない。単なるビジネスの観点だけで見るべきではない。
QOLという単語は産業戦略工学専攻教員時代にお目にかかったのだが、その単語の記憶は上長教授同士が「QOLは変化しないのだ!」「いや、向上したり低下したりする指標だ」と本気で怒鳴り合ったことで記憶に刻まれている。社会的に当たり前に使われて、なんだか未来の光明の様にふんわりとした幸せな世界をイメージさせる単語なんだけど、決してそんなことは無い。生活の質と直訳してしまうと『質』なんだから微分値があっても良さそうに思うのだが、そう思うか思わないかは学者の持論に任せたい。
マーケットに行けば手が出ない高価なトマトジュースから、貰っても飲みたく無い様なものまで様々なんだけど、「こんな効能がトマトジュースにはあります」というテレビショッピングやSNSで呪文を掛けられると、財布の中身に応じた商材戦術にまんまとはまって買っていく。いや、効能は虚偽では無いのだろうけれど、トマトを食べたら劇的に健康になりますなんてことがある筈は無いのだが、誰でもクモの糸に縋りたい気持ちを使ったビジネスにまんまとはまっていく。
数万年を経て構築されてきた肉体活動を維持させる食べ物だから、何世代前からか繋がる食生活が作り上げた今のDNAにとって、より良い状態の食材を得ることが重要であって、そのより良い成分が今のトマトにあれば良しということなのでしょう。勿論、トマトだけで解決する問題では無いのだけれど、DNAでQOLが決定づけられるのであれば、主観的なQOLは変わっても良いのでは無いかと今は思っている。その時の上長教授の年齢を超えてしまったが、そんな気がしている。