目が曇ると怖い。それを一刻のリーダーが示してくれたということだ。冷徹に成り切ってもいけないのだろうし、人情に振り切ってもいけない。中庸ということなのだろう。自分達だけが正義であると、700年代から倭人は先住民を殺戮し続け、完全にその純血を断ってしまった。それを正義と貫き、教育してきたのが現状である。更に遡れば、西方からの文化を伝えた民を追放し、自らが決められた血族と伝承してきた一族も居るわけで、時の大きな声に流されやすい民族ということなのかも知れない。
マイナンバーカードの普及の少なさを見てもそうだ。マスコミが「個人情報が漏れるから危ない!」と、何処かの学者の一声を、全ての学者の声と置き換えて報道すると、8割以上の人が「危ないカードは持たない」となった。そもそも論として、社会保険庁が国民が払った年金の記録をきちんとしておかなかったから、個人と将来支払われる年金とを明確にしましょうとして考えられたものであって、国民一人ひとりの社会における権利を保証するものであったわけだ。それが行き渡っていたら、とっくに困るであろう人が、困った後でも、未だに支援されない国の状況は無かったかも知れない。
住民基本台帳とマイナンバーカードが紐づけされていないということにも驚いた。この国は一体、どうなっているのだ。何でもかんでも監視して、出張帰りの新幹線で焼酎を呑んだみたいなところまで記録されてはつまらないが(別に何とも思わないのだ、つまらないというだけだ)、自分が持っている社会的権利を使えないこの国の状況は国民が作り出したものだが、結局、自分達で自分の首を締めているだけの話だ。
何となく思うのだが、巨悪に声を上げても殴られ抹殺され損な国だなぁということ。電車を待っていて、さぁ、乗り込もうとしたら、4、5名の人生の大先輩達が、小生を跳ね飛ばして割り込んで、どかどかと席を確保する。まだ来ていない人の分も含めて占拠する。これが日本の有様だ。良い行いは褒められなくても良い。しかし、悪しき行いは天網恢恢疎にして漏らさずの世であって欲しい。それだけの事である。逃げ得を許さない。それだけで良いのだ。