精神世界の異端児

先日、某所で対面の講演をさせて頂いた。講演というか講義というか、名目は講義になっている。年齢差、最大43歳である。何が伝わるのか?恐ろしくなる。こんな所に出てきて良いのか?そう考えてしまうと「教師」の積もりがいつの間にか「説教坊主」になっているのかなと、教壇の無い教室で、ここに居てはいけないのでは無いかと、正直、思った。教わる側の気持ちにどれだけなれるか?「解釈不能だろうな」という気持ちはわかる。彼らの頭の中の咀嚼具合が伝わってこない。

自分が同じ年代の時、大人の言うことに従うという概念が無かった。要はいきがっていたということなんだけど、同様に考えれば、講義など引き受けてはいけないのだ。人生100年時代なんて、要は、年金を渡すことが出来ないから、自分で稼げなくなったら死ねということなんだろうけど、とてもではないが、そんな思想に付き合ってはいられない。付き合う自信などどこにも無い。80歳を越えた国政のリーダーに従っていたら、この国、一体、何処に行ってしまうのか?

勿論、教育や研究に長けた方に政治をお願いする事が正しいこととは思わない。それぞれ役割があって、年齢分担をすれば良いのだ。若くして政治向きの方も時々出現するわけだが、全ての人がそれに当てはまるわけでは無いから、無理をする必要は無い。世代の枠組みは重要で、フリック入力で論文を音速で書き上げる人種と、機械式タイプライターで育った人種ではSDGsと聴いた時に、真っ先にこう取り組もうというベクトルは異なるだろう。若い思考のベクトルに委ねたい、そう思う。

受け取った感覚が一つあって、それは思考のステップが妙に細かいこと。全てが与えられているわけだからその範囲で生きていれば良い人種なんだなと強烈に感じる。思い切り思考をすっ飛ばす小生と、そんな事、何故考える必要があるのかと、道の無いところに分け入るなんて考えもしない人種と、もう、同じステージに立つことはお互いにとって精神上良くないのではと思ってしまう。君達には君達の幸せがある。どうぞ、その幸せに突き進んでくれと言いたいが、どっこい、こっちの世界は世界で、あっても良いだろうと、精神世界の異なる国民の生存を認めて下さいねと、そんなお願いはしないで勝手に突き進もうと思った私であります。