Why?があること

何か新しい事をやってみようと思った時に、誰かがこれをやっているからとかとか、ネットで見たネタを組み合わせると出来そうだからとか、そんなアプローチを取りがちだ。また、リーダーにしても売れなかったらどうしようとか、そんなもの、出来る筈はないだとか、そんなことで手をこまねいている間に海の外の人達が、新しい事業を進めてしまって、降り出しに戻っていく。マイナス金利の目指すところが、企業が給料を上げ続ける状態になったらそれを止めて、先ずはゼロ金利からということなんだけど、なんだかなぁ。

その昔、ひょっとすると今もあるのかな?、某学会において、Si基礎物性評価というセッションがあって、40年前から重箱の隅をつっついて、漆をはぎ取って、材木の中を見て喜ぶみたいな人達が集まっていた。批判するわけでは無くて、そこでの新しい研究アプローチが半導体デバイスを作り続けた企業の知恵になっていたのは間違いないのだ。ちゃんと世界的な論文に掲載されて、企業の活力にもなっていた。ただ、学者サイドは企業の活力なんてどうでも良くて、兎に角、ニッチを目指したわけだ。

要するに、社会では潜在的であり、そして未知であることに挑戦するわけで、「無い」ことに挑戦していたことに驚くわけだ。ただし、そこには不文律があって、何故それをやるのか?という「Why?」の問い掛けは必ず答えるということはあった。大いなる失敗もしでかしたが、その場において猛烈に鍛えて頂いたことは忘れない。例え、社会において顕在化している問題であっても、そこへの取り組みが成されておらず、未知の領域であったならば挑戦しても良い。そこには意味的な価値が生まれるから。

いろんなお企業様からのお問い合わせで「こんなジグソーパズルのピースは落ちていませんか?」という問い掛けがくる。開発に行き詰まったか、最初から技術を買ってしまえと言うことなのだかは定かでは無いが、社会で顕在化していて既知の課題にお金を投じても、そこには価格競争しかない。学者がそこに手を出すと、ハゲタカジャーナルに投稿するしか無くなるわけだ。研究成果のエクセルギーがゼロなんて研究を何故やるのか。マスプロダクション終焉の2023年だが、2024年はどうなるのか。新しいアプローチは何時始めても良い。今始めようではないか。