申請書考

最近、ファンドの獲得に対して支援をお願いされることが増えてきた。それなりに回数を重ねた方であっても「これは酷い」というものに出逢う。若い方なら「まぁ、仕方が無いな」と思ったりするのだが、図抜けて素晴らしい仕上がりの文章にも出逢う。するとこれは年齢とか申請回数とかで決まっているわけではないなと解ってくる。某、日本最大のファンドマネージャ提案などは、事務局が最低線の精査をして頂いているので、手元に届く際にはそこそこの状態にはなっているのだが、第一稿などを拝見すると、何をしたいのか解らないというレベル感がやってくる。

ファンド申請だったり、賞の受賞を目指すものだったりと様々なのだが、一つ言えることは「研究の未来を、定量的に描けていますか?」ということ。単に改善・改良などの提案では、余ほどのことが無い限り通る事とは無い。お作法を示すことはしないが、大切なのは申請によって未来をどれだけ手前に引き寄せるかだ。それは論文でも似たようなところがあるのだけれど、論文は今の絶対を示すのであって、ファンドはファンドマネージャの意向を汲んでそのビジョンを叶えることを前提に、どれだけ未来を手前に引き寄せるかが重要だ。

いろんなファンドがあるので一概には言えないのだけれど、この申請者にお金を託したら、ファンド側として鼻が高いという内容でなければならない。研究者の自己満足の補強みたいなものは直ぐに見抜かれはじかれる。勿論、出来レースの低俗なファンドもあるからそこまで言えないけどね。ファンドにも松竹梅があるわけで、松を前提にお話をしている。学者の提案であるから、新奇学理によって理を明らかにすることに対して、新規の工学的手法などを提案する際、本当にそれが唯一の解なのかも示さねばならぬ。

しかしながら多くの提案は「これがあったら出来る」みたいな、いや、金額からするとこれしか買えないからこれを提案するみたいな申請になってしまっていることを感じるわけだ。研究テーマの設定も陳腐、新奇学理の提案もない、そしてその改善策も不確定要素満載で、どうやって研究しようというのか?考え方を教わってこなかったのかと思ってしまうのだが、企業人とお話をしていても同様の場合もあるから、研究者の指導についてもっと踏み込むべきだと考える。プライド云々ではない。日本の未来はそのあたりからだ。