ラジオ

感傷という単語は知らない。ボヘミアンラプソディーが20世紀、最高の「音楽」と称号を受けて早くも18年だ。楽曲そのものは小生が中学校2年生の時のものだ。芸術以外の表現が無いと感じた。ラジオ短波の100万人の英語で小林克也さんが取り上げていらっしゃったことを覚えている。世界と繋がるラジオ短波、その中で繰り広げられる、なんというか「誰も聞いていないからやりたい放題」みたいな雰囲気が心地良く、毎日毎日、ラジオ短波である。

ラジオと言えば、今もある「ジェットストリーム」だ。「夜のしじまのなんと饒舌なことでしょう」というフレーズを1970年代のラジオ少年に知らないとは言わさない。未だに続く夜のしじまだが、城達也さんのなんとも甘い音楽とも言えるナビゲーションに、心打たれた学生の何と多い事か(勝手な統計です)。飛行機の旅で、雲海の上を白々とした薄い闇を亘りゆく飛行機の窓辺に、そのフレーズを思い出さない野暮は無い。

想い出に浸るわけではない。想い出はごみである。ゴミになるから想い出であり、今そのものこそ、真空に広がる爆発であって、さっきはすべからくごみである。そこまで達観せずとも好いと仰って頂ける方もお出でだが、所詮、小生如きが未来など語れず、世界の土地々々で、受け止めた民族が、宗教に至るまで伝達するのだ。

ラジオは今もある。スマホラジオも良いのだが、やはり、チューニングして会話を探すのが面白い。語る、そしてこちらは想像する。その関係が良いではないか。一つの答えだけではない、無限の可能性がある。チューナーの向こう側。案外リアルな関係と思う。愉快である。