丁寧な研究が良い。丁寧であればあるほど、新しいことが見えてくる。先日大先輩の彫塑家の方のお話を頂戴したのだが、漱石の夢十夜では無いのだが、入っているものを削り出すのが彫刻で、それはマイナスである。彫塑は足して作るからプラスである。それを美しく作り上げるのが彫塑家である。結論が決まっているのが彫刻家、結論を創造するのが彫塑家。妙に腑に落ちた。
ビジョンからバックキャスティングで素晴らしい社会を描き、そこに到達するためにはどんな要素技術が必要なのか?それを見出し、そしてそれを解決していく。未来を想像し、新しきを創造する。ビジョンを達成するという大きなお話であるから、一つの要素技術でなんとかなるものではない。積分していくわけなのだが、今、全てが揃うわけではない。次世代の研究者にバトンタッチということになるが、それを受け取る者が出てくるかどうかも分からない。彫塑家と研究者の違いはそんなところか?
開発はゴール設定が「売れ続ける」というところにあるわけで、研究とは全く違う。これも先人がずっと前の学長が「気軽に言うな!」と怒号を上げられたのではっきりと覚えている。先人の教えに無駄は無い。「研究・開発」という連語を当たり前の如くに使った者に対して、「研究と開発は全く別物だ。そんなことがわからんのか!」という、これも腑に落ちた。
もう一つ、「安心・安全を御社は作ってますよね」ということに対して「安全は当たり前、安心は到達し得ない」と世界トップの商材を世に出し続けられた方の重い一言は忘れられない。安心に到達する為に、プラスし続けながら、時にはがらっと入れ替える必要がある。売り上げでは無い、人の安心は時代によって世にある道具が変わるのだから、安心への因果関係が変わる。だからそこ研究が必要なのだと。宿題の締め切りをとっくに過ぎて、取り繕うかのごとくに発表の前日に提出してくるような輩が作る商材に安心は皆無だ。それは間違いない。