空間喰い

そんなもの暇な時にやれという大きな声が聞こえてきそうだが、その「ひま=何にでも使える時間」を持っていないのだから仕方がない。数十年にわたって溜まってしまった文献などをデジタル化して空間を開けていこうという試みだ。試みというからには過去に数回、大々的にやってはきたものの、断捨離の難しさ、なかなか進まないのだ。

そうやってほったらかすと、新しく空間を塞ぐ道具たちが大勢押しかけて、見るも無残な魔窟へと進化していく。小生の居室が魔窟だと思っていたら、まだまだ序の口だから大丈夫だと、なんにでも上には上があるものだなと、先輩諸氏のking of 魔窟を拝見して安心してしまうからいけない。

昨年度は少なくとも、一日1品は捨てていこうという活動を目指したのだが、どうだろう、100日は出来たと思うのだが、空間を排除するモノたちは、多い時には数十という数で襲ってくるものだから、結局、新規モノ軍団が勝利を収めてしまうのだ。こんなことではと、今年こそはと頑張り始めている。

そればっかりだと、それこそ「暇人」となってしまうので、お仕事を行いながら並行して行うというところに辛さがある。計算機データだけでは生きていけない人種であるから、モノやこれからモノに成長するものが無ければお仕事にならない。歩ける空間くらいは欲しい。紙がなんでこんなにあるのだと、省資源化が叫ばれる昨今であるが、そうも言っていられない事件については、明日、語りたい。

そろそろと進む

入学式の看板の前で親子で写真を撮影する。余りにも遠い昔で入学式に看板があったかどうかすら覚えていない。昨今は家族連れで賑わうイベントになったようだ。鶴舞公園は花見真っ盛りで、暖かい日差しも相まって、入学式日和となった。めでたい事である。

出発と言うことであれば昨日までの地方選挙も、これからの数年間の出発点でもある。忖度だけが政治となってはいかん。駄目は駄目で良いのだが、何故駄目かをきっちりと言えないといけない。定量的なデータで示さねばならぬ。本社に「鶴舞大学は要らない」と言われたときに「これだから必要だ」と定量的に言えないと、感情に負けてしまう。それが世の中だ。

何事も最初が肝心とは言うが、まぁ、きっちりと成果を出してくれればとは思うのだが、冷ややかな他人の目が常に新進の想いを抱くとは限らず、後ろ向きな人程声がでかいから、最初は通常スタートが良いのでしょうね。グループワークなどは一回目から休んでしまうと、残りは何も手が付かないなんてことになりかねない。

4月も2週目に入り、挨拶週間から実働週間に多くの事象がシフトし始めている。こう書くと「挨拶だけやってんだ、あいつは」と直ぐに組織の足を引っ張る方がいらっしゃるが、小生は何も変えませんし、変わりません。今年度も粛々と一歩一歩進むだけです。しかし、世の中は猛烈に動き続けています。それをキャッチしながらの、一歩一歩、よろしくお願い致します。

桜と人

今年の鶴舞大学入学式は土曜日でありまして、いよいよ明日、学部と院の2回にわたって実施されるわけでありまますよ。改装された公会堂を拝見するのは楽しみでありまして、文化財の改築という、大きな事業を目の当たりに出来るのは楽しみです。新入生の初々しさには勇気を頂けますしね。

日々の出来事、年中行事などを、単に繰り返し行われるルーチンと思うか、毎回毎回、初めての体験であると実感するかは、その人間の心のあり様を映し出すように思います。慣れというのは当人の頭の中だけであって、初めての出来事として体験する人がいらっしゃる以上は、同様に新規の出来事だと、共に感動することこそ重要であると思います。

何年も同じ講義を繰り返していると、恐ろしいことにどんどんと難しい内容になっていってしまうのですよ。しゃべることそのものは、しゃべっている当人にとって理解できている内容であって、当たり前になってしまう。しかし、初めて聞く人にとってはえらく難しい。事務の電話対応などは、常にフレッシュな気持ちで行うべきでしょうな。強烈な勢いで変革していく時代の中において、ベテランの経験すら、間違った対応になりかねません。それをしない人こそベテランと言うことでありましょう。

桜は心をわくわくウキウキとさせてくれる、素晴らしい友人であるとともに、その散り際の美しさによって、昨年までの己惚れた自分を捨てろと教えてくれているのではと、妙に、今年はしんみりと、散り始めた桜を体感している私であります。

国民ならば

上場投資信託で日本の株価が一定値より下がらないわけだが、24兆円の大株主が居たら、そりゃぁ、大概の企業の株は下がらないだろうなぁ。市場に流せば企業がでんぐり返るということであれば、売りに出すことはできないだろうし、適正価格が取得額を大きく下回ったら、まぁ、この国、崩壊なんでしょうけれど、国民がもろ手を挙げて迎えた国政の方々のやることだから、従うしかないんでしょうねぇ。

きな臭い話はこの程度にしておいて、やっぱり春のネタが良いですな。春とはそんなに関係があるわけでは無いけれど、地方議会選挙投票日が間近に迫っておりますな。平日の日中は塀の中に籠っているので国政選挙などは声が聞こえないのですが、地方議会の選挙においては、至るところで声が聞こえて、これが議員のある姿だなと感じるのです。

地方をどうするかという点において立候補されているわけで、その勇気に敬意を表するわけです。小生が在している地域は無投票決定という地域では無く、そこそこ激戦区なんでありますよ。だからこそ、活発な活動に接することが出来るのかもしれません。国政とは切り離して考えないといけないのかもしれないけれど、〇〇党という看板を背負っていらっしゃるわけだから、影響を受けないわけにはいきませんな。

政令指定都市であると、一つの行政区においての住民数が数十万人に及ぶわけで、1票がどうのこうのということでは無いですが、それでも投票には行かねばならない。行くからには「どんな決意表明をしているか」が明確に、簡明に示されていることが必要ですな。「明日を拓く!」みたいな誰でも言いそうな人には投じるわけにはいかないわけですが、この日曜日に向かってどうしようかなぁと、案外、真面目に投票の行方を考えているのであります。

春認定の日

桜が咲くとどっかに出掛けてみたいと思うのだが、昨今はそんな日程を組むことが出来ず、精々、駅から鶴舞大学までの道すがらを旅だと思い込むので精一杯である。それでもそれは間違いなくリフレッシュになっていて、様々な発見をもたらしてくれる。

コブシの木がネコヤナギのお化けみたいなつぼみを付ける頃から、春の勢いが増してくる。まんさくの頃はまだ寒いが、コブシが白や薄紫の花弁を広げる頃には、コートのボタンが外れてくる頃だ。6時半には明るくなりかけて、公園のラジオ体操の人影が目視できるようになってくる。毎年の事ながら、大先輩方の活気には元気を頂ける。

気が付くと公園の樹々に新芽が吹き、フレッシュグリーンが揺れる様を見て、気持ちが晴れやかになる頃、薄桃色の桜の花芽が膨らみ始める。その頃になると、もう、気分は花見なのだが、最近の若い方々は花見の文化が無いので、研究室で鶴舞公園などという粋な行事はとんとご無沙汰だ。まぁ、これも時代である。

桜の一輪が帰ってきてくれた途端に、心は一気に春である。一年間になんの区切りも見いだせない職制に追い立てられてしまってはいるが、何が区切りかと言えば、正月よりも桜の一輪との対話である。それを見出すための春先の街中の徘徊は、実に有意義でアドレナリンどっぱぁである。まぁ、満開だけど、一人の花見もよろしかろう。そんなところだ。

自分本位の時代

歯を食いしばらない。それが現代の美学なのかもしれない。真似をしようとは決して思わないが、どうもそう見えてしまう。卒業に向けて花向けの言葉をなんて言われても、時代が違いすぎますからね。あれは大略、10歳程度の年齢差の先輩から送るのがよろしい。

なんとなくなのだが、誰かに認められたいから頑張るとか、他人の目があるから自分を出せない環境に育ってきた気がする。本当にやりたいことすら見えなくなって、他人の言葉が人生の舵になってしまっている。それを乗り越えて自分が進むべき方向はこっちだぁ!と絶叫出来た時、自分そのものの思考を信じることが出来るようになるんでしょうね。

ただ、社会に出てみるとピラミッド構造が思いっきり強固にあって、図面屋さんの誕生など、その最たるもののような気がする。そこで思考するべきは、やはりバックキャスティングなのだと思う。他人を超えるなんてしょぼい目標は捨てきって、今の自分より煌めこう、理想はこんな自分だと信じるところから、今成すことを実行するべきだ。

人間という種族は、最初のアダムとイブはどんな状況にあったのかはさっぱりわからないけれど、見返りを求めて活動するよりもあなたのための貢献とお互いに想いあった社会に生きてきたのではなかろうか。与えられたゲームや脳髄に手を突っ込んでくる人間に憧れるのではなく、与えられた命を懸命に生きるところからスタートするべきだろう。う~ん、どんなにあがいても誰にも伝わりそうにない。まぁ、人生はそんなもんかもね。

他律主義

桜の季節が温暖化のお陰でどんどん早くなっていて、年度内で立派なお花見が出来るようになった。なったのだかなってしまったのだか、まぁ、人間が作った桜が人間の仕業で、人間が勝手に決めた暦の上で早く咲いているだけであって、喜ぶことも嘆くことも馬鹿馬鹿しい。愛でればよろしい。それだけのことだ。

母の手のぬくもりとやらを思い出させるのは桜であって、そう女々しいことを言うならば、卒業式よりは入学式の満開が好ましい。なんだかんだ言っても、やっぱり入学式の初々しい若者の笑顔と桜は良く似合う。冬に耐え、そして眩い輝きを見せる桜は、何と人生と重なることか。

卒業という「業を終える」ということなのだが、終えたからこそ次があると考えると、尊い言葉に思えてくる。一所懸命に頑張って、その結果、その頑張ったご褒美に証書を頂ける。努力証書に恥じるべき者も多いのだが、まぁ、小生もその部類だが、業を終えた価値を自ら見出さねばならぬ。それが卒業なのだと思う。

感傷的に成りがちで、花向けの言葉を小馬鹿にしそうだが、いやいや、先人の言葉は重いものだ。まぁ、他人を軽んじて自分だけが努力していて、それを認めない奴はゴミみたいな風潮があるが、全く持って大間違いである。真の努力は首を垂れさせる。そうならないのであれば努力をしていない。それだけのことだ。

生活様式を転換できるか?

例によって理想論を並べてみたのだが、理想から入らないと話は始まらない。会議の紙の資料などはそれこそゴミの始まりであって、デスクの上のスペース破壊者そのものである。緻密に並べられた文字列を精緻に読み取るには余りにも多すぎる情報量であり、既にそれはゴミである。勿論、この「戯言」は偉大なるゴミであることは承知の上なのだが、まぁ、お許しくださいというところだ。少なくともペン立ての中で数年間も働いていないノベルティボールペンよりはましな存在だと己惚れている。

シェアして使うことがオフィスなどではゴミ削減の一歩だと認識している。定規などは各自の目の前にある方が作業効率が高くなるからそのほうが良い。一方、滅多に使わないというようなものは「のり」などは共有で良いと勝手に思っていて、迷惑を省みずその都度「貸してください」とお願いしている。そんなところから一つ一つ減らしていくことが重要である。その意識を持つことが大切である。

核家族化によって一人一人が独自の活動を家と呼ばれる空間をシェアしている人同士が「パック」された食材を独自に活用している社会においては、過去に中に何かが入っていた「パック」のゴミの削減はかなり困難な気がする。そしてそれらの一定量が巷に投げ出され、そしてマイクロプラスチックになっていく。ゴミ製造のゼロ化が最早無理なのであれば、少なくとも街にゴミが溢れている現状は無くならないのか?

学会誌などは電子化の方向で検討されているが、ビニール袋に入って送られてくる紙という資源のなんと多い事か。折角の電子化社会ではあるものの、まだまだ画面でじっくり書類に目を通すという文化が浸透しきっていない。恐らく小生の年齢よりも上の方々の責任であろう。やはり人の頭の中の問題ということになるのだろう。生活様式を転換させる。いずれ廃棄するものを作らない。それを実現するものづくりこそエンジニアが思考し続けるべきである。それに注力したい。

取り残される日本

週末にマーケットに出掛けるわけだが、野菜などは極力「裸売り」している店を選んで購入している。新鮮かどうか一目でわかるし、何しろ不要なゴミを出さなくて良い。昭和40年代前半にあっては、籐の買い物かごなどは何処の家庭にもあって、店頭には卵が山と積まれて1個買いをしたもんだ。それがあっという間に現状の様にビニールパック、プラスチックパックに化けていった。

街のパンやさんでは焼きたてのパンを紙袋に入れて売っていたし、豆腐屋などにはボールを持って行ったものだ。住民が商店と一体化してお互い、少しずつ努力して無意識にゴミを無くしていたのだろう。ゴミ収集も年を追うごとに増えていったような気がする。そして夢の島がパンクして燃やして地球温暖化に貢献するようになってきたわけだ。

フランスではスーパーにおいて食品の廃棄が法律で禁止されているわけだが、我が国では家畜の飼料にするから問題ないと、無駄に作って本来の目的外に大量に使うことにご執心だ。惣菜を作るには多くの調味料も必要になっているわけで、それらはかなりの割合で海外からの輸入に頼っている現状を考えると、日本の食卓は本当に大丈夫かとどんどん不安が募るばかりだ。例によって調子良く話がずれてきているが、ゴミを無くすには一体どうすれば良いのでしょうねというところに無理やりもっていかないといけない。

パッケージを不要にするなんてことは出来ないことと思っている。思っているのだが本当にそうなのだろうか?PCなどを購入すると段ボールや本体よりも高価なんじゃないのというゴージャスな箱が廃棄物となって出現するわけだが、こんなものが本当に必要か?何か、間違っていないだろうか。良いものを大切にすり減ってどうしようもないところまで大切に使い切る。そんな良いものがパッケージレスで買い手に届くということは出来ないのだろうか。輸送効率を考えるとそれは理想論であることは分かる。分るが何とかゴミを減らしたい。何よりも共有している地球を汚して平気な心を無くしたい。

文明開化はゴミ創りか?

先日、今年の幸福度の世界比較がマスコミを賑わせて、既に忘れ去られているわけだが、世界で58位だそうだ。幸福かどうかなどというのは一人一人の感じ方であろうから、国全体が幸福かどうかなどはほっといて頂戴と言いたいのだが、マスコミ的には面白いお話なのでしょう。健康寿命の項目では2位だったのだが、人生の選択の自由度が64位、寛容さが92位と言う事で総合成績として58位だ。ゴミの量なんてのがあったらどうなったんでしょうかね?

じゃんじゃん作って燃やすのだから、廃棄物発電施設の利用率はとても高くて、65%を平均で超えているとのこと。日本中の地面すらゴミにし続ける太陽電池は15%、風力ですら25%(24時間に対して)であるから、再生可能エネルギーに比べれば施設効率は良いということなんでしょうね。しかしながらゴミを作って燃やすという、なんだか、発電のためにゴミを創造しているのかと嫌になる。

コストという観点で言うと、廃棄物発電のコストは大略17円/kWh以下で、火力の30円/kWhに比べれば随分と安いが、天然ガス発電の14円/kWhに比べると高くつく。ゴミ発電には、焼却灰の処理コストも加わるから、単純に施設活用だけのコストでは済まないが、これは石炭火力では同様のことだ。ゴミを捨てて燃やすのだからゼロ円だろうなんて考えてはいけない。

マイボトル、買い物袋の活用等、ゴミを削減する努力は可能であって、それは積極的に成されるべきなのだが、駅のコンビニで「それから」と「サラダしたらば」を買うのにマイバッグを使ったことが無い小生に何も言う資格は無いけれど、突き詰めていくとそういう事なんでしょうね。ヨーロッパでは買い物袋は紙になっているし、土にかえるものを活用するようになっている。江戸時代まではそれが出来ていたのに、文明開化という謎の掛け声でゴミ大国になった我が国は、チーム地球に組み入れられる資格がある国か?と首をかしげてしまう。