休日

久しぶりの晴天に恵まれた週末。秋祭りの掛け声に誘われてぶらっとプチ旅に出掛けてきました。実りに感謝し角々の神様が祀られ、この時とばかり昼間から真っ赤な顔をした男衆の晴れがましいこと。あんな気持ちでお仕事をさせて頂きたいと、テクノフェアも機構際みたいに盛り上げられたら楽しかろう。

11月3日は我が国では晴れの特異日であって、10月10日に並ぶ晴天が約束された日。流石に特異日らしく、週初めの天気予報では曇天であったのだが、天は予想など委細構わず雨雲を吹き飛ばす。思い立ったが吉日でぶらっと出掛けた、遺伝子が呼ぶところ。そこそこの人の出でしたが、春先のお花も無く、閑散とした頂上で呑気に琵琶湖を眺めてきました。気温が上がってきていたので、琵琶湖からの水蒸気が激しく、僅かに湖面が見えるかなという程度でしたが、それでも魂の洗濯には十分。

考えてみると、昨年は全くの休みなく、今年に入っても同様で、気晴らしらしい気晴らしをすることなく2年を過ごしたなと、山上で思った次第。魂を休める休暇こそ休暇であって、それは何処でも出来るというわけではなく、遺伝子が根付いたところということなのだろう。なんだか元気になって戻ってまいりました。

当たり前のことが必然になり、それがいつしか壁になる。慣れは単に繰り返しの結果だが、より良く、そして誰かのためにという意識があれば、無意識に高見を目指すし、それが壁となる。時には幼いころに見上げた場所からその土地を見下ろしてみるといい。如何にちっぽけな自分であることか。本当に久しぶりに一等三角点に触れた。そんな休日、魂の洗濯をして、さぁ、もういっちょうとふつふつと気合が沸き上がる私であります。

郡道

全く感じないのだが、名古屋の街はプチバブルだそうだ。2億円程度のマンションが瞬殺で売れてしまうというお話を伺った。猫を飼うと3ヶ月分の家賃をプラスするとか、じゃぶじゃぶとお金を持っている方が溢れているらしい。学生時代にバブルと呼ばれるものが弾けてしまい、就職先がほぼほぼ無くなってしまった状況で、現在に至っているので、億ションなどが存在すること自体が不可解である。

今朝、郡道を通ってみたら、長屋があったところにスギ薬局が鎮座ましましていた。数日前には何か工事をしているなという状況だったのだが、いきなり薬局が出現した。薬局と言っても、最近の店舗は日用品や衣類や、着飾るようなことを考えなければ1店舗で全てが揃ってしまう萬屋である。街のど真ん中に出現して生活スタイルをガラッと変えるパワーがある。

その昔の薬局は間口2間、白衣の紳士がガラスのショーケースの向こうから現れて、異臭の中でぼぉっと立っているというところだったが、コンビニよりも便利で、近所にあったら便利(あるけど)な存在である。郡道に出現したのは時代の流れなのだろうなと、戦後の古い町並みが消えて樹脂で覆われた建物が現れ、無機質な空間を作り出す。

地震で倒壊する前に、長大な長屋が取り壊され街が変化していく。愛知郡が作った群道という荒畑地域ではとても歴史のある街並みが今様に変化していく。形あるものはいつかは滅びる。当然の出来事ではあるが、気に入っていた街並みが平凡になっていく様は少し寂しい。変化を進化とみるか、エントロピーの増大と捉えるか、恐らくそれは後者であろう。乱雑はうっかりすると規則性を伴って、妙なエネルギーの集中を生み出す。そうならないように、常に意識を高く持ってエントロピーを減少させる努力をし続けないと、心地よさは進化しない。備えあれば患いなし。それは薬局の存在では無く、自らの意思にある。

テクノフェア

技術の祭典。この地に名古屋高等工業学校が創設されたのが明治38年3月28日。そこから数えて112年となるわけだが、何故だが11月1日が創立記念日となっている。熱田神宮に土師器を収めていたから御器所団地であり、その地に古墳を抱きながらものづくりの伝道師として、凛と立ってきたのが我が、名古屋工業大学である。

活きた教育、活きた研究、活きた課題を旗頭にやってくる明日を、人々の笑顔を増す日々にしていきたい、その想いで技術を価値に転換させてきたわけだが、本日は、正に展覧会。名古屋工業大学テクノフェアである。本学を挙げて興行を打つ。今年はたまたま創立記念日にあたり、何やらお目出度い雰囲気万歳である。ご来訪賜る皆様と共に10尺玉くらい打ち上げたい気持ちだが、消防がうるさいし、そもそも実弾が足りず、火器自粛である。

JR鶴舞駅から5分足らずで正門に到着し、直ぐに右手に映える講堂にて開催。本日はお天気よろしく、天に祝福された興行となった。有難いことである。技術を知り、技術の可能性を探り、そして、技術を価値に転換していく。社会の価値になればこそ、そこにイノベーションがある。既に使い古された感のあるイノベーションだが、あっと驚くだけではイノベーションとは言えない。貨幣価値が生まれてこそのイノベーションである。

700万年前、人類を生み出した地球だが、同一種がウイルスの如く増え、地上を埋め尽くすとは思ってはいなかったろう。人は謙虚に親である地球に感謝し、争い無く、笑顔で次世代を迎える心の広さを獲得するべきだ。それこそ価値であり、人々が共有するべき出来事であるはずだ。本日、御器所団地にお越しの皆様には、気が付いたら笑っていた、笑顔になっていた。そんな一日にして頂きたい。ようこそ名古屋工業大学へ。お待ち申し上げております。

広辞苑

紙の辞書を最近使っていないなと。書斎の新明解国語辞典の裏表紙には、中学1年生の頃から名工大に転任になるまでの歴史が刻まれている。ネット時代において紙の辞書は場所を取るだけの存在になってしまっているが、ブリタニカの全集も未だに手の届くところに鎮座している。おやっと思うとすぐさまそれに応えてくれる紙の集合体は、古代人にとっては有難い存在だ。

新明解に限界を感じ、もう少し語彙を増やそうと広辞苑を購入したのは博士課程の1年生。某ガマの油売り大学は5年一貫の博士課程であったから、その3年生の時である。後輩の卒業論文の添削の為に購入したことを覚えている。今、教授室にはそれが鎮座している。しばらくそれを紐解いていないのだが、捨てる度胸が無い。恐らく、断捨離されることは無く、ここを去るまで居座っているのだろう。

辞書と思わしき紙の束が、教授室にどれくらいあるのかと眺めてみると、英語関係が最も多いが、中国語、ロシア語、スペイン語が目に付く。何故購入したかをしっかりと覚えている。その時代時代に必要であった言語である。自動翻訳機が出現している現代において、会話そのもののために語学を学ぶことに意味を感じないが、文化に触れる、理解しあうためには、語学を体得することは、国境を超え友達になるためには必須だと思っている。

相手の発言の向こうにはどんな意図があるのだろうと、近寄ろうとする前に、これを理解せよと迫ってくる方々がなんと多いこと。言葉に出す前に聞き手の感覚を意識しない。理解して頂いてこその会話であり、プレゼンテーションである。カチンと来たら自らを省みる。日々これ反省の私であります。

マルシェ

10月に2週続けて週末に台風が日本列島に強い影響を与えた。10月といっても月末であり、11月と言っても良い時期だ。この時期に、日本近海の温度が高いということは、相当に温暖化が進んでいるのでは無いのか?たまたまの気候変動であれば地球のくしゃみ程度なのだろうが、10月の日照不足はちょっと異常な気がする。これもたまたまであればそれはそれで良いのだが。

週末は可能な限りマーケットに出掛ける。マーケットと言ってもマルシェよろしく、地域のその季節に収穫された野菜を、綺麗に飾らずに販売している店舗に出掛ける。例年に比べて貧弱な青物に出会うと、天候不順がかなり深刻だなと実感する。緑黄色野菜を摂取しなさいみたいな健康志向があったとしても、地元で獲得出来ない場合には、遠方からはるばるやってくる栄養素が破壊され切った繊維だけを食するような気分になって気持ちが悪い。

普通のマーケットに行ってみると、○県産と、遠路はるばるようこそお越しくださいましたとばかりに、着飾った食品達が陳列されている。それでも例年に比べて高価に感じる。安部首相が叫び続けている物価を上昇させるのだという国内情勢を、気候はいとも簡単に達成する。自然の強さである。自然環境にこそ恐れをなすべきであって、自らの弱さを知り謙虚になるべきだ。食糧自給率に関して、瞬間瞬間の値を見たら、一体、どうなっているのだろうかと背筋が寒くなる。食糧事情が悪化すれば、健康保険料にすぐさま跳ね返り、お国の事情は労働力低下、予算不足に一直線。消費税を上げようが、買うものが無くなれば元も子もない。

世間をうろつくのは日曜の限られた時間しか無いのだが、なんとなく、それこそなんとなくなのだが、例年と比べて妙な感じがする。食べられるものだけ食べていれば良いのだが、ドメスティックなマーケットに通っていると、一体何が起こっているのかと、気象だけの問題か?と様々に不安ばかりが想起される。自分では解決不能な事実に悩むことほど愚かなことは無いのだが、いきなり食べ物が無くなるとそれはやはり不安の種だ。自然に謙虚に、人に謙虚に丁寧に、やっぱりこつこつと一歩一歩だなと、どう逆立ちしても勝てない台風に首を垂れる私であります。

Paradise Cafe

馥郁たる香り漂うところ、そこはParadise Cafe。親の趣味の受け売りでもあるが、コーヒーを「淹れる」ことが趣味である。コーヒーを飲むのもそれは好きだが、それよりも何よりも淹れる行為にこそ楽しさがあると思っている。

種々の謂れがあるなかで、アフリカのコッファの港から輸出され始めたからコーヒーとなったという説を好んでいる。趣味だから何でも良いというわけではない。えぐみ少なく甘みとアロマを抽出する。その抽出の行為こそ「淹れる」行為である。サイフォン、ネルフィルタドリップ等々、様々様々試してきた結果、今の方式に落ち着いている。難しい能書きを垂れる方は勝手に言っていて頂戴と、一杯2000円なんてコーヒーを有難く頂戴している方々はどっかに行っていて欲しい。

コーヒーを嫌いという人は、煮詰まって甘み無く、香りも無く、ただただ茶色い液体を飲まされた経験に依ると思う。勿論、嗜好品だから、好き嫌いは当然の事。無理はしなくて良い。ただ、残念なことだなぁと思う。折角、お茶を飲む文化がある日本なのに、同様の飲み物を楽しんでも良さそうなのだが、どうもそうはいかないらしい。真っ黒いから嫌と言われてしまうと、あぁ、そうですかと言葉を返す必要もない。

「教授の淹れるコーヒー」で評判を博したParadise Cafeも9年で幕を閉じた。閉じたのを幸いに、別店舗で開店しようじゃないか。何時、開店しているか分からない。それがこれからのParadise Cafeである。

秋晴れ

あなたの趣味はと尋ねられたら、5億年くらい語り続けるかもしれない。恐らく、先祖代々を遥かに超えて、128億年前に生まれた宇宙を越えて受け継がれたのではないかというくらい、熱中するものはある。真逆に、何にも無いという者も多いようだ。楽しみも無ければ、大学卒業後にどんな仕事をさせて頂いているかもイメージ出来ない大学4年生とは何事だと思う。自らの想いがどうなっているかは別問題として、誰かのために頑張っているんだってイメージくらい、抱いていても罰は当たらない。

久しぶりの晴れ間を仰いだが、昨日の戯言を神様がご覧になられたかどうかは知らないが、やはり晴れは良い。地球は丸いのだなと感じる。あぁでもない、こうでもない、無駄にシナプスが繋がったり離れたり。人間はこれから何処に行くのだろうかと、南極以外、陸地にはすべからく人間が住んでいるというのに、やはり発祥のアフリカを思い出す。何を馬鹿をと仰るだろうが、一人、サバンナを歩いていた記憶がある。灼熱の太陽に体を焼かれながら、とぼとぼと歩いていた記憶がある。貴方にもあるだろう?

二足歩行を始めてからたったの700万年だ。つい、昨日の気がする。現代は車輪を通じて地球に対して加速度を得ているが、人類は自らの肉体をもって地球と対峙するべきなのだと思う。数が増えすぎて誰かがリーダーとなっているが、宇宙が作った遺伝子とはなんなのか?偶然の産物にしては物事が整っている。整い過ぎている。エントロピーは増大する筈なのだが、減少方向に向かってはいないか?

なぁんて、それこそどうでも良いことをつらつらと考えてしまう。これこそが秋空であるべきだ。何があっても変わらない天空の青さと日本の政治。明治維新に立ち合いたかったわけではないが、為政者が趣味でもろもろいじくりまわすものだから、国民はひたすらあくせく歩き回る。歩き回っても当たる棒が無い。それが日本である。だからこそ、当たる棒を作らねばならぬ。こんな駄文こそ戯言だ。明後日、山に行けるのか?なんだか不安だが、それはそれで良いのかもと、週末の台風に、またきたかと、いよいよ海水温が限界を越えたのかと、それでも現生人類は生きていかねばならぬ。地球上、どこに行っても真夏の大地で、生命の95%が絶滅した2億5千万年前のメタンハイドレートが噴出した時代に近づいている。愚かな人類はそこまでいくのかと、久しぶりに太陽を仰ぎ見て感謝を越えて恐れを抱いた私であります。

雨に想う

少雨の夏が過ぎたら雨ばっかりの秋が来た。遠い秋空を仰ぎ見て思索に耽ることも無く、傘で空を遮りアスファルトの道路の水溜まりを避けながら、冷たくなっていくズボンの裾に嫌気を感じつつ日々の会議を想う毎日だ。毎日快晴なんてことになったら、要するにそこは砂漠なのだろうから、雨は恵と感謝しないといけないとは解っていても、降るなら真夜中にまとめて降れよと、叶わぬ思いを心の中で愚痴ってみたりもする。

ただ、考えてみると、雨が降るというのは重力に従っているということだ。我々とて重力があるから歩行できている。無風ならば雨は地球の中心を指しているのだ。物凄い物差しだ。ふらふらする人間よりよっぽど偉い。侘び寂びというところには到達してはいないが、心の中で偉いと思い、成すがままに地球に引かれているさまを寂びと捉えると、雨を見て侘び寂びを楽しめるかなななどと笑ってしまうと、もうそこには侘び寂びが無くなってしまう。先人の人生観の高さに脱帽するのみである。

うなだれて歩いていると気分も滅入る。懸命に努力しても結局は短期決戦で長期の努力が消えてしまうプロ野球の仕掛けにも滅入る。その昔は野球小僧であったが、今のプロ野球の仕組みのつまらなさには呆れかえる。頑張って一番になっても後から来た奴らに上前を跳ねられる。親方日の丸にはよくあることだが、こんなことで本当に良いのかなと、だんだん興味も薄れてきている。良い執念が実る、そんな社会が嬉しいと思っている。そうなるように努めようと思う。

最後の剣客と呼ばれる榊原鍵吉氏の墓所が四ツ谷西応寺にある。明治になっても刀を振り続け、明治天皇が趣味で開いた鉄兜を刀で割らせるという無茶苦茶な貴族主義的興行で、全国から集められた元武士3人の中、たった一人、鉄兜を割った人物。成せばなるかもしれない。成さぬと捨ててしまう人が多い中、何かを貫き成してみる。成してそれまでの努力は報われ、努力だったのだと当人は納得できるだろう。雨も降りたくて振っているのではなく、地球環境がそれを求めるから振るのであって、人間の都合などどうでも良い。いや、飲料水、食糧、諸々全てにおいて雨は有難い。有難いのだが、やっぱり夜中に振ってくれよと傘越しに空を見上げて苦笑いをした私であります。

 

進化?

挑戦があれば結果がある。結果を得ることを恐れると何もできない。天の声、神の声、様々な声と鉄槌があるが、その瞬間に猛烈に強烈に生きることをしないと、凄まじく短い人生なのに、何もせずに、そして生きた証すらなく終わってしまう。誰も尊敬することなく、畏敬の念を抱くことなく、我儘し放題な連中は、そんなもんだ。天上天下唯我独尊と、利己主義人種は、結局のところ、自らも幸せにすることなく消えていく。

このプロセスは、思うに人間という種の在り方とは異なるのではないか。お互いに声を出し合って、助け合い喜び合い、時には怒鳴り合い納得しあって数万年を生き抜いてきた種とは異なっている。声の無いネアンデルタール人に回帰していると感じる。学びで自我を埋めもせず、智慧の発信源を尊敬せず、そして自己満足もせず、シナプスを繋げることもせず、そんな新人類が出回っている。遺伝子的にはホモサピエンスかもしれないが、脳細胞は別のものだ。

会話は無く、誰とも目を合わさない。他人を無視する素振りを見せて、その実、徹底的に排除する。それが現生人類であり、それらが学校の先生という職に就き、同人種を指数関数的に増大させ続けている。未来ではなく自らの価値観、いや、エゴ、いや、なんと言ったら良いのやら、自らを除く同様の形態をした物体を喜ばせることは決して無く、そこで完結したその物質は、気持ちの悪いことに、どんどん、他種を仲間に取り入れ、気が付けば、昨日まで「おはようございます」と声を掛け合った方ですら、むすっとさせる。

6千5百万年前、ユカタン半島に落ちた、直径400mの隕石が遺伝子の発展の終焉にたどり着いた種にとどめを刺した。単一遺伝子で動くたんぱく質集合体であるホモサピエンスは、まだ、1億年の時を経ていないから、まだまだ遺伝子は変異を続け、新種の発現を止めることはない。共食いを始めた新種は旧種を滅ぼすだろう。気分的にはさっぱりだ。と、数年前から感じていたことだが、「のぞみ1号」という始発に乗ってみたら、隣の背広を着た新人類が、旧人類では理解できない様々な活動で朝の静寂をぶち壊してくれるので、とっととこのステージから消えていこうと、ぐっと握り拳、決意を固めた私であります。

大嵐

小生の職場においては投票済証を提出しないとお仕置きだという愚かな義務は課されていない。投票は国民の権利であってそれを行使することは当然の事だし、槍が降ろうが何だろうが、天下国家に意思表示はしておきたいと思っている。1億2千万分の1の効力でしかないが、それでも1票あることは有難いことだ。自らが国民として何を考えているのか、それを問い直すマイルストンともなる。職場によっては投票済証を提出しないといけないなどと不埒な要求があるらしいが、言語道断である。

名古屋市においてどの投票所にもあるのかどうかは知らないが、指定されている投票所に行くと、出口の付近にずらっと並んでいる。ご丁寧に絵柄を表にしてきちっと並べてあって、絵柄が違うものがあるのかと思いきや、全部同じなのだ。どうも束で置いておくと、どかっと持っていく者が居るらしいと毎日新聞は語っている。何のためにと思ったら、投票済証を提示すると、ラーメンの替え玉が無料になるなどのサービスを実施する自治体があるらしい。魂消た。そこまで愚かな国家であったかと嘆く気持ちすら失せる。

昨日は時が経つと風雨が激しくなりそうであったから7時過ぎに徒歩3分のところにある投票場に向かった。狭い投票所に公金で雇用された方々が群れを成し、次から次へと注文してくる。注文の多い料理店だって、これ程に無駄な要求をしないだろう。選挙権を有する者に送られてくるハガキを提出するということは、誰が投票したのかを管理するのかと思うが、まぁ、そこまで馬鹿なことをするまい。
入口付近で渡される細っこいわら半紙のなんと頼りない事かといつも思うのだが、名簿に割り印をされ、投票用紙と交換を受ける仕組みには、そこまで面倒なことをしないといけないのかなと、永遠に電子投票などにはならないのだろうなと、進化の止まった我が国の選挙の仕組みを歯がゆく思う。

主張の微々たる違いで党派が分かれ、且つ、一つの党においても主義が異なって派閥を作っているような、今だけを乗り切ろうとする政治家諸氏が居並ぶわけだから、選ぶ国民にとっては国のビジョンや方向性などを見極めて一票を投じるなど困難を極める。それでもなんらかの論点を読み解いて一票を投じるわけだ。立会人に「それはこっちだ」などと居丈高に怒鳴られて、なんと浅ましいことかと情けなくなった。結局のところみんな戦争が大好きで消費税もどかんと払う方向を選ぶ。若者も教育無償化に引っ張られるのだろうが、借金がその分嵩んでいずれ自分達に付けが回ってくるなどとは考えない刹那的な生き方。一票の格差が2倍に収まれば憲法違反では無いなどと、民主主義国家には永遠に成り得ないのだろうなと寂しさを感じつつ、それでもやっぱり投票には行ってみた私であります。