朽木倒し

樹齢三千年の屋久杉が倒れ、様々な声がメディアに乗って流れている。三千年を超える生命を誇る樹木が折れ、倒壊したということに関しては「残念」という気持ちはあるが、それだけである。自然の生命体が自然の現象によって変容したのだ。それは自然のなせる業であって、一瞬の命しか持たない生命体がとやかく言うことでは無い。やって戴きたいことがあるとすれば、しっかりと年輪等を学術的に調査して、この三千年にどのような気候変動があった等々、生きた証を学術的に証明してあげて欲しい。

本土においても樹齢千年を超えると言われる木々が多く存在している。当該地域においては、伊勢湾台風によっても倒されなかった屈強な長寿の巨木があるわけで、それらなどに触れてみると、その暖かさと寛容さに、ただただ感激するのみである。ちっぽけな業績で威張り散らすやからの、なんと残念なことか。重箱の隅をつついて穴をあけて、その向こうを見るような些末な提案を「改革」などとうそぶいて、本社から分配金を獲得できず、次の裏工作に走るようではお里が知れる。

実際のところ、倒壊してしまった屋久杉はどのような処分がまっているのだろうか。垂直に近い、切り立った密林から、倒壊した巨木を平地まで下すには相当の工夫とエネルギーが必要だ。勿論、捨て置いて朽ち果てさせるということも「あり」である。そんな末路を辿った樹のほうがよほど多かろう。山には未だ知られない古木もあるかもしれぬ。人に知られずにいる巨木というほうが、何というか、清々しいではないか。

人も家も暗いうちは滅亡はしないと右大臣は言った。明るみに出るから台風によって倒れただけで大騒ぎをされる。余計なお世話である。自然のままにあるものは、自然によってその生命を絶たれるのは当然のことである。その日が来たということだ。八幡宮の大銀杏ですら嵐によって倒されたのだ。どんな歴史の生き証人であっても、自然のものは自然に還る。美しいではないか。美しく去る。かくあるべし。