ウサギを起こせる?

石川洋先生の「寝ているウサギさんを起こしてあげるカメになりたい」という作品は素晴らしい。これを知ったきっかけは、某小学校の会議室の壁に飾ってあった、この誌の石川洋先生直筆の色紙を拝見した時だ。引用させて頂くと「空いっぱいに空があるように 心いっぱいに美しい心を育てよう おくれてもいい 寝ているウサギさんを起こしてあげられるカメさんに 私はなりたいな」。ウサギとカメの逸話は、常に、さぼる奴より丁寧にコツコツ積み重ねる奴が必ず勝つというものだ。とても違和感があったのだが、妙に納得したのだ。

そもそも論として、ウサギとカメとはフィールドが違う。陸上と水生だ。ゾウガメのように陸を主体として生活する種もいるが、日本で出会うカメは、大略、池の傍に住んでいる。水の中ならカメは圧勝だ。それをウサギのフィールドにカメを持ちだして、脱兎の如くのまま永遠に走り続けられると、勝負にならない条件設定をしている。これこそプロパガンダである。それぞれが快適と思う空間で、思う存分、命を全うすれば良いでは無いか。何故、ウサギとカメを競走させる必要があるのだ。

「寝ているウサギさんを起こしてあげられるカメ」の余裕ある姿に感動したのだ。どっしりと構えて泰然自若。目先の利害にとらわれず、目的地を定めて突き進む。真実と信じた地を目指して一歩一歩歩んでいく。その素晴らしい土地を共に目指してくれるのであれば、寝ているウサギさんも一緒に行きましょうと起こして上げる。現代社会に必要な姿はウサギさんを起こすカメさんではないか。

間もなく、海外からの旅行客が、円安の日本を蝕みにやってくる。目先の利益に終始して、粗製乱造な商品を売って、金儲けしようとする輩が闊歩し無いか心配である。コロナ禍を生き延びた辛さはあろう。しかし、それから解き放たれたからと言って、その分を取り返そうとすると、脱兎のごとくに突き進み、別の疲れで寝込んでしまうのでは無いか。同種の生命体の競走には起こしてくれる他種は居ない。同種はみんな先に行く。ご用心。

経験者考

誰かが知っていれば良いだろうという組織は、既に組織の体を成していない。知の共有が組織の一丁目一番地と思っている。多く、ベテランは経験値で「自分は初心者の頃からそれを解っていた」と部下に圧力を掛けるわけだが、単に慣れているだけで、解っていたのと出来るのとは異なると言われるように、経験知になっていなければ、何も組織として共有できないわけだから、そんな経験値は要らないということになる。

「あの人のやり方は真似できない」と初心者は熟達者を見て思うのだが、これは一理ある。真似できるものを積み重ねていくと、要するに「その人には真似が出来ること」をその人の味と共に重ねていって、新たな微妙な「真似のできないもの」が生まれることは良く有る。「本当に真似の出来ないこと」を持った人は強い。余人をもって代えがたいとはそのような人のことを指す。

真似ようと思っても、個人の価値観は個人の分だけあって、全員違うわけだから、完璧にトレースなどできはしないし、その必要はない。真似るところは「何故その人が他の人をどのように喜ばせようとしているか」という方向性。それさえ真似が出来れば、プロセスは如何様にも変化させることができる。むしろ、同じ方法を取る必要など無いのだ。組織構成員全員が当事者意識を持てれば、それがもう「真似た」ことになって、全員が知を共有したことになる。「何故」を教えずに「形だけを真似ろ」という者は組織には不要である。

オープンが重要である。経験を知に作り込んでいく。それをオープンにして共有していく。自分が損をするのではなどと考える必要は無い。そもそもそんな輩の知は共有されても迷惑なだけだから。組織構成員がお互いの意識を高めあう知の共有を成すべきである。組織の中で、何をさせて頂くことが全体最適となっていくのか、それを考え行動に変換していく。その時に気付くはずだ。もっと良い場を作り込まなければならないことを。社会は生き物だ。今の組織はその生き物にとって居心地が良く無ければならない。組織人が居心地が良い組織は無用の長物である。そんなもんだ。