誰かが知っていれば良いだろうという組織は、既に組織の体を成していない。知の共有が組織の一丁目一番地と思っている。多く、ベテランは経験値で「自分は初心者の頃からそれを解っていた」と部下に圧力を掛けるわけだが、単に慣れているだけで、解っていたのと出来るのとは異なると言われるように、経験知になっていなければ、何も組織として共有できないわけだから、そんな経験値は要らないということになる。
「あの人のやり方は真似できない」と初心者は熟達者を見て思うのだが、これは一理ある。真似できるものを積み重ねていくと、要するに「その人には真似が出来ること」をその人の味と共に重ねていって、新たな微妙な「真似のできないもの」が生まれることは良く有る。「本当に真似の出来ないこと」を持った人は強い。余人をもって代えがたいとはそのような人のことを指す。
真似ようと思っても、個人の価値観は個人の分だけあって、全員違うわけだから、完璧にトレースなどできはしないし、その必要はない。真似るところは「何故その人が他の人をどのように喜ばせようとしているか」という方向性。それさえ真似が出来れば、プロセスは如何様にも変化させることができる。むしろ、同じ方法を取る必要など無いのだ。組織構成員全員が当事者意識を持てれば、それがもう「真似た」ことになって、全員が知を共有したことになる。「何故」を教えずに「形だけを真似ろ」という者は組織には不要である。
オープンが重要である。経験を知に作り込んでいく。それをオープンにして共有していく。自分が損をするのではなどと考える必要は無い。そもそもそんな輩の知は共有されても迷惑なだけだから。組織構成員がお互いの意識を高めあう知の共有を成すべきである。組織の中で、何をさせて頂くことが全体最適となっていくのか、それを考え行動に変換していく。その時に気付くはずだ。もっと良い場を作り込まなければならないことを。社会は生き物だ。今の組織はその生き物にとって居心地が良く無ければならない。組織人が居心地が良い組織は無用の長物である。そんなもんだ。