別条と別状

現状と異なる様相を想定した時、それがなんらかの効果によって、想定の範囲内に入った時、上司に報告するときに「別条御座いません」と、多くの世界で使われるだろう。しかし、小生の活動の場においては「別状の無い範囲内です」という報告を得る。後者しか使っていない世界に生きていたので、前者の活字をニュースで拝見して「おやっ?」と思った次第。

どちらも正しく、辞書的には活用されている。しかし、いや、しかしではない。成程と感じたのは、決まったゴールがイメージされた時には「別条」であって、新しい出来事に取り組んでいる中で、幅広く、目標の範囲内に入っている時、要するに、未来指向で、想定する範囲の中に活動結果が入っていれば別状無いという文字列を使う。官僚にとっては別条以外は無く、新規に挑戦するる者にとっては別状ない状況が、次の行動への勢いを得るということであるのか。

想定外を己に許さない別条と、想定外こそ次の一手への勢いとなる別状とはまるで違う。NHKであるから別条があってはあるまい。しかしだ、世界の状況を鑑みるに別条無い状況は、この国が「つまらない生き方」に満ち溢れた民ばかりということだ。お役所が決めた方向性に対して別条ないことしか出来ない民は、もはや、世界に取り残された、新規性の無い税収を盛り上げるアイデアが無い組織のありようだ。

ひょっとするとだ。ミスがあって、リーダーが謝罪しないといけないような状況は「別条ある」状況ではあるが、それがあったからこそ、旧態依然を壊し始めることが出来る。別状を巻き起こしたいのだが、多くの民が別条を嫌がる。嫌がるどころか、別条発生者を反乱軍とばかりに排他する。圧倒的に動いているのだ、社会は動いているのだ。護るべき今は何か?それだけを考えるべきである。家族と言う単位では吹き払うことは困難であることは体験しているが、社会では変わらねばならない。圧倒的速度で。その筈だ。