いろんな研究機関からの予測が出ていて、次に感染のピークが生じるのは、あるとすれば1月の中頃なのだそうで。それを見越しての11月以降は自由な経済活動をというお話が出ているのだろう。どうも「以前の通り」ということで、対面だけをイメージした補助金事業が進められていくようだ。というか、対面を救っていくと言ったら良いか、リーダーが60歳以上で取り巻きも似たご高齢年齢層ってなってしまうとそうなるんでしょうね。
GIGAスクールは電子式ツールを活かした教育ソフトウエアを活用し、自らの成長具合を確認しながら学ぶことができるということで、これはコロナ禍だからなんだとは関係なく進めておかないといけなかったのだが、単に端末メーカーを設けさせる癒着に熱心なだけであって、名古屋市の教育現場は、有り得ない程にあふれかえる不良品で教育が進まない状況にある。更に思うのは、現場の教員が不良対応で面倒が起きるのが嫌だから、教員が修正し続けてしまって、不良端末の正確な数字が解らないことだ。計算機リテラシーが欠落した教師が現場に存在することの弊害だ。政治の世界だけではない。
若ければ良いということではない。積極的に学び、新しい知識を取り入れ続けなければならないというのは当然の事である。その新しい知識の中身が問題だ。最新の知識だけではなく、たとえ面倒でも、おかしいものはおかしい、駄目なものは駄目という普遍的精神状態が何処かに行ってしまっているのではなかろうかと感じるのだ。未だにマイナンバーカードが当たり前に使えない。世界におけるビフォーコロナにすら普遍的常識感が、この国においては到達していないと感じる。
失敗を認めない文化が、失敗を恐れさせると、綺麗ごとばっかり並ぶわけだが、そもそも成功すらしたことが無いのに、失敗を恐れるとは何事かと思う。何か政策を打とうとすると、成功事例を持ってこいとなる。にわとり・たまごと、これまた綺麗ごとなのだが、そもそも両方ともまだ無いよと言いたいのだ。余りにも遅く、余りにも保守的でもう、何をやっても無駄なんじゃないのって思ったりする。一方で、世界の勢いは留まるところが無い。こんな時こそじっくり地固めなのだ。未来をイメージしてそれを地固めするわけで、当然、失策があるだろうが、明確な失敗事例を一つでも残すことが、今の日本に出来ることでは無かろうか。そう感じている。