天変地異に想う

自然災害とは何か、自然とは何か、それをこの週末に見た、そう、見たのでは無いか?50年、そこに住んでいらっしゃる方が「一度も体験したことが無い」と仰る。昨年の九州の豪雨災害の繰り返し、デジャブーである。それが熱海で起こる。これは凄いことだと感じる。申し訳無い言い方だけど、首都圏での通勤県内で土石流災害が発生し始めたということだ。これは国家機能停止のトリガが引かれたと言うことだ。多くの国民が、携帯電話によって記録された現実に、明日は我が身を感じたことだろう。それは正しい判断だ。

まだ、何とも言えないわけだが、上流に大規模太陽電池発電所のための「ハゲ山」が作られていた。衛生画像でも明らかになっていて、それは隠しようが無い。お上は「関係ない」と報道するだろう。それをマスコミは伝えるのだろう。思考を停止させてね。赤城文書の黒塗りが、最初から黒塗りであったとの如くの報道の様にね。そして、都の選挙の如く、投票に行かない人達によって国家は滅びるのだろう。いや、既に自律的治癒能力は失われている。他国が普通に持っている能力を自ら放棄していることがこの国の危うさだ。

何かをしなければとは思うのだが、最早、ものづくりだ何だというカテゴリで次世代産業を生き伸ばすことは無理だ。自動車?飛行機?工作機械?そんなものが数千万台販売される時代は消えていく筈だ。そんな資金も資源も、全く失われているのだ。しかし、人類は他国を攻撃するアンチ他国ツールは積極的に作る。これこそ、世界が「グローバル」になったら要らないんですけどね。この国はグローバルという単語を未だに拝んでいる。悲しいことだ。

各地で今回の熱海現象は発生しないのだろうか。濃尾平野のようなまっ平なところなら、まぁ、その確率は低いとは思うのだが、少しの傾斜でも惨事は起こる。ハザードマップ上、当たり前だと仰った学者先生だが、もっと大きな声で仰っては如何か?我々は学者の知恵にしか縋るものはないのだ。学者こそ人民の幸せの方向を決める。その筈なのだ。今回の事例もそうだし、過去の事例も学者が関与できたのか、出来たのにさせなかったのか?天下争乱の時に学者が関与できないのであれば、学者の価値はゼロだなとは思う。もう少し、学者が生きる道は無いものか?天変地異に学者の価値は全く無いなと、自虐的笑いが漏れる私であります。