受動と能動

行動や思考に対して、能動的か受動的かを考えている。自らは何かが出来ると言った時、能動的っぽく聞こえるのだが、その出来る事を受け止める人が居なければ、単にコマーシャルを打っているだけで、受動的なアドバルーンを上げているに過ぎないとも思えるのだ。そうすると「想う」という思考の在り方は受動的で、「想われたい」という思考こそ、自らに何かを引き寄せようとする能動なのか。なんだか言葉遊びになってしまうのだが、これはビジネスを考える上で重要な要素だ。

眼に見えるものは間違いなく真似をされる。真似をされた密度が高ければ、真似されたものは優れていると言えるだろう。それだけ受け入れられているという事なのだから。真似をする側を能動的と取るか、真似をさせたことを能動的と取るか。受動と能動にどれだけ拘るのだと思われるだろうが、守りと攻めという言葉と、受動と能動という有り様を重ね合わせて考えすぎているのかもしれない。自分はこれが出来るという自己表現を自律的な表現とするのは良いが、それが他への働きかけであるならば、これが出来るから誰か使ってくれという事まで伝えるべきだろう。

それであっても受け身であることには違いなかろう。だから営業に回るのだから。大学の研究の社会実装を目指すにしても、要素技術を社会が理解して頂けるとは思わないので、こんな価値に繋がりますよという提案をさせて頂く時、能動的な活動と勘違いをしていたが、正しく受動的活動であり、守りの姿勢だなと感じたのだ。買い手が存在していて、そこに向けてチューニングして営業を掛けるのであっても、能動的活動と言えるかどうか?

攻めの行動に出たいのだが、攻めという活動を能動的と考えたいというところから、冥府魔道に落ち込んでいる。積極性が認めらたとしても、受け身の積極性ではビジネスとして敗北である。能動的に攻めているという行動は、どのような状態を示すのであろう。技術の価値化という表現も、何やら能動的な雰囲気を感じるのだが、価値と認めるのは社会なのだから、これも受動的だったのではなかろうかと、数十年、技術経営を考えてきて、言葉の定義が曖昧であったことに気が付いた。気が付くのは何時でも良いのだが、はて、日本語とはなかなか難しい。そう感じる。