多様性議論に想う

Web会議が当たり前になってくれたおかげで、移動時間が無くなって、とても快適である。まぁ、旅の楽しさは無くなったわけだけど、どうせ行って戻ってくたびれるくらいが関の山となることが多いので、それで良い。議長を仰せつかると、それを良い事にいろいろ聞きまくることが出来て、これも愉快である。多くのベテランの方々は、未だ、遠隔会議に慣れていらっしゃらないこともあって、多くとってある会議時間が余るのだが、それを良い事に無茶ぶりをしながらお話を頂いている。

多様性とか透明性とか言われているけれど、会期が残り少ないから議論しないなぁんて与党が仕切っている国家だから、新しい議論が進むわけがない。それに対して反対者が沢山居るという報道が成され、10万人から署名が集まったとかなんだとか。ただねぇ、与党の得票数がどれだけあるかということなんだと思いますよ。10万人は少なく無いけど、与党の皆さんが獲得した得票数ってそれから比べればけた違いであるはずで、そう考えると、国民の大半は「多様性の議論なんてしなくて良いんだ」って思っている。

多様性というのであれば、Web会議なんてへっちゃらさということになる筈なんだけど、未だに東京に出て来いって言われるもんね。事業所の方針で、東京に出掛けるとそののち1週間は事業所に出られないと言って、しぶしぶ納得して頂けるような状況だ。多様性なんて受け入れる素地は無いなと感じる。対面至上主義で前例が無いことは頑として受け付けない姿勢は、ある意味潔い。

Web会議で出来ないことは、まぁ、こそこそ話くらいかな?チャットで出来るという人が居るが、あれは文字情報が残るという意味では、こそこそ話ではないのだ。その辺りが難しいところかなということなんだけど、今まで、案外、そのこそこそ話がキーになっていたことが多かったかなと思い出した次第。でも今はそれは禁じ手なんだから、ニューノーマルのこそこそ話手法をあれこれ考えるわけだ。空気感のウエブ化。こう書いておくと、誰かがツールを作ってくれるに違いない。無意識の多様性というか、そもそもそんなことが議論されることが馬鹿馬鹿しい。あって当たり前。それだけのことだ。

飛躍と前進

「それは飛躍し過ぎだ」としょっちゅう突っ込まれる。小生的には全くそんな意識は無いのだが、どうも先走るというか論理に飛躍があるらしい。話が合わないことはしょっちゅうだ、むしろそれを正しいと思っている。答えがありそうな議論は適当に相槌を打つから飛躍も何も無い。確認という行為は大嫌いだしね。相槌で安心を求められるのが一番嫌い。無駄の極みである。怒ってくれというのなら大歓迎だ。いつでもどうぞ。

とは言うものの、飛躍の無い意見に怒りなど湧いてこない。それはそうだろう。そんな議論にお付き合いする時間は残されていない。いつ、この世から消えるか分からない昨今である。突然、高熱で倒れ、酸欠であちらに渡るかもしれないのだ。イギリスとインドが合体するという、なんだか植民地政策かみたいなコロナウイルスの変態だが、そんなところにまで関係性を持たずとも良かろう。

飛躍が悪いわけではないし、飛躍しようとする心構えが必要なのだ。世界から見たら、そして宇宙から見たら人類の飛躍など、かけらににもならない。本当に些細な事なのだ。常に視点を自分に置いているから飛躍に見えるだけで、宇宙からの視点で自分を見つめてごらんなさいな。ほらね、ちっとも飛躍なんてしてないでしょ。

自分の意識をずっとずっと先に置きましょうよ。そうするとね、何かが見えてくるんだって。相手の意見に飛躍を感じるのであれば、自分ならどんな風に前進するのか考えてごらんなさいな。守るべきものなんてこの国にはどこにもない。それなのに自分の考えばっかりを大切にしてしまう。まず捨てる。すると心に余裕がきっと出来る。そこに前進の起点が出来る。思い切って飛躍してみるのが良い。思考は飛躍から。やってごらんなさいよ。