地下鉄から出ると強い雨。天気予報とは異なる状況である。カバンに潜ませている折りたたみ傘で難をしのぐ。備えあれば患いなし。あらかじめ準備をしておけば少しも心配事が無いということなのだが、ふと思った。昨今、研究にしろ授業にしろ、患いの無い諸君で溢れている。備えをすることを全く意識せず、何も考えないから患いが無い。備えする気がないから患いなしというのが現代流だ。
自らに能力が無く、だからこそ学ばねばならぬ。それだから患いが無いように備える。その順番だろう。やる気が欠落し、後悔という単語を持たない人種には患いと言う単語は無い。日頃の努力は無意味であり、刹那的にやり過ごして生涯を終えることを良しとした教育を受けた人々の社会に、歯の食いしばりと血のにじみだけが価値という教育を受けた人間は無用だ。
それでもやぱり備えてしまう。何かを期待されればそれに応えようと踏ん張る。勿論、満点はあり得ない。限界の努力。それが重要である。これでいいのではないか?と自分で思ってしまうのは間違いだ。失敗して良いのだ。自分の今を最大に出せたらそれで良いのだ。そこまで行って、漸く先人の努力の意味が解る。何故努力するのか?それは限界の努力を積み重ねる者以外には絶対に伝わらない。
熱意は伝わるものと思っていた。しかし、人種が既に変わっている。新しいサピエンスの時代が来ていることは間違いない。ネアンデルタールとホモサピエンスの共生時代、彼らも同様に感じたのだろうか。そして消えていったのだろう。備えがあっても患いがある。しかし、それでも備えるのか、それとも無駄と思って備えないか。備え続ける、それしかない、それが私であります。