心の中

心の中では当たるも八卦、でも、それを気持ちに組み込んで頑張ってみようかなと言う2600年の歴史を持った易ではあるが、見られる覚悟は必要だ。まぁ、いろいろあるでしょうけれど、小生のお袋なんぞは易が好きであって、しかも、都合の良いことだけ信じるという、都合の良いことと言ったらない。多くの方々が同じ思いを抱いたのではというお袋の思い出である。

兎に角、都合が良いのである。TVで最悪となっていても新聞で第一となっていればそれを信じる。易者って何なのだろうと、正直、何故、こんな商売が存置できるのか分からないが、しかしながら、こうして話題にするくらいなのだから、取り敢えずは信じてしまう、この小生が居るということだ。信じるというより、まぁ、そんなもんかなと、例えば朝の瞬間に思うだけだ。出勤途上の空を見たとたんにそんなもんは二度と思い出すことは無い。結局は、まぁ、そうだろう。

占いは、なんか信じてしまうのだ。景気が良かろうがどよんと死にそうな予想だろうが、こんなことが今日は発生するのかと、胸に刻んでそう信じるのだが、ところがそんなことになった記憶はさっぱりないのだ。大学生の時、ラジオの占いを大学に行く前に日記に記録し、夜にどうだったかを書いたのだが、当たったことなど一切ない。無いのである。だから占いは競馬の予想より悲惨なのだ。

しかし、根拠が無くても自信満々、あるいは、調子が良いみたいに言われると、取り敢えずそうしておこうと思うではないか。ドツボは予想が出た時には、何があっても、今日はついていないからなぁと考えておしまいなのである。そんな気持ちだから当たるに決まっているのである。そうではなく、真に当たる予想・予約そ除いて真に当たるかもしれないと感じるのはいったい何故なのだろうか。この何故さが重要で、人の気持ちを知るに伝わる。皆で出雲民族を大事にしようではないか。我が国のまほろばである。ただ、それだけだ。