量子力学

講義で使うわけではないのだが、量子力学の本を買ってみた。量子力学が解ると言う奴に解っている輩は居ないという名言があるが、確かにその通りだと思う。極微の世界の出来事の不確定性というものは、観測できるのだか出来ないのだか、それが明確に成らないところに愉快さがある。決まらないから頑張れるというやつだね。数式でぐりぐりやって、数学的に美しいから、それが正しいのだという圧力には嫌気がさすのだが、確かに、美しいから仕方がない。

エネルギーの質点がゆらいで宇宙が出来たわけだが、物質と半物質がせめぎ合って、質量はないけどエネルギーはあるみたいなところのバランスが崩れてどっかぁんと質量が湧いて出たというわけだけど(思い切りいい加減な説明ですからね)元来、宇宙を形作るものは同質のものでは無く、正負なんて甘優しいものでもなく、1+1=0なんだけど0ではないみたいな、そんな揺らぎがあるからこその人間社会なのかなと、論理を飛躍させてみたいわけだ。

昨日の新聞に人類は食事の場を持つことで仲良くなるというようなお話が掲載されていたのだが、まぁ、かくあるかなとは思うのだ。それがコロナ禍で断絶されて社会がギスギスしてきたというお話には納得するものがある。光があるところに銀塩が集まったり集まらなかったりして写真というものが出来たように、光あるところに人が集い、そして想い出が出来るというようなことはあってもよかろう。そんなことを考えていて買ってみたのが量子力学であったわけだ。

哲学の書物も良い、数学も良いのだが、なんだかわけがわからないことを難しく、誰にも解らないように先人が解説している書物に触れると、どんなに逆立ちしても先人には叶わないなと思うのだ。それが愉快なのだ。解らないのが良いのだ。極微の時間的変化を考えずに生きていられるならばどんなにか幸せか。今、社会において不確定性が満ちているわけだが、そんなことを理解しようと試みるのも量子力学を理解しようとする凡夫の愚かさかと苦笑いである。でも面白いのは事実である。だから社会活動も面白い。そう考えてみたいのだ。