修学を想う

金が足りないから増刷して事を成すのであれば、それこそ誰にでも出来る。省庁横断型のチームを作ってやりたいことをやってみるとけしかければ、それは動くだろう。お金を投じたら何でも出来るという事でもない。解りきったことだが、お金に頼ってしまうのですな。お金は頼られるものであって、頼るものではない。

修学という言葉がある。学習とはまるでちがう。そこにあるものを理解して、そして次を教えて頂くのが学習であって、積み上げ型の講義がまさにこれですね。何かの技を身につけるなどもこれに当たる。修学は、事柄を理解して、それを体系化することである。おさめそれをして真理を求める。それが修学である。修学は遥かに遠く、とても生きている内に到達出来ないが、まぁ、学習ならなんとかなるかもしれない。一向に歴史を学ばない方がお金を持つのだから始末に悪い。

昨夜、自転車で帰宅途中、北の空が激しくフラッシュしていた。最初は光だけであったが、かすかな雷鳴が聞こえるようになってきた。岐阜方面は電車が止まるほどの雷雨であったのだが、隣り合わせの県なのだが、乾ききった暑さがつきまとってくる有様である。ぐずぐずしているとひどい目に会うのが最近の空模様であるから、そそくさと逃げる。雷に打たれるのも好みではない。

人の都合で自然界に無いものを作り出し、便利だからだと更に作り続ける。地球をほじくって古い命を燃やして今の命を繋ぐ。罪深き生命体である。次の国のリーダーはどんな方なのだろうか。その行動は国民を向きながら行われるのだろうか?そろそろ真剣に政治を行って頂けないだろうか。私利私欲はもうまっぴらだ。そう思っている。