HP100LX(その前に95があったが、それは置いておく)に始まった電脳パンツ。何時でも何処でもパソコン通信を通じて世界の仲間と話が出来る、そんな時代は20年も前からあった。iPhoneの進化で電脳と呼ぶよりは、そっちが本当の脳みそで、人間側がタンパク質脳位の地位に落ちているのではと感じる。ムーミンは何処の帰属かと問えば、学者が真面目に原作にはムーミン谷の位置は特定されないという見解を示す。マスコミも面白がってフィンランド大使にまで聞きに行く。人間の脳みそは何処に行ってしまったのか?
工学が様々に人の労働に掛かる労力を削減してくれたのは間違いないだろう。ここで言いたいのは巨石を動かすとか、力学的な作用だ。何処を支点にすれば効率よく石を動かせるかなどの状態において、人は自らの脳みそを働かせ、てこという明確な原理を伴った工学で作業する。ところが関数関係が無限になってくるとこれはかなりお手上げで計算機の力を借りる。借りている間は電脳と呼んで良かったのではないか。電脳が勝手に思考を始めるとこれは電脳とは簡単に呼べまい。
自己思考若しくは判断する電脳を何と呼ぶのかはほったらかして、それを中核にする自動運転技術が海外では明日にでも実用化・販売される段階に入った。いつの間にか日本を除く国々では街そのものがAIへの情報提供とAIでの制御を受けた人間活動を無意識に強要される体制が整っている。大袈裟に言ったが、渋滞緩和だとか、歩行者の流れをスムーズにするとか、水分補給で熱射病対策をさせるとかだ。軍事的にはもっと激しく進化しているんですが、それはここでは語らず。
こうなってくるとパーソナルデジタルアシスタントと言うよりもソーシャルデジタルアシスタントのレベルだ。PDAに対してSDAとでも言うのだろうか。街の各所をユニバーサルデザインに変えたとて何にもならず、それらが強調して工学を受け止める心の優しさに溢れた人間活動の場にならねばならず、そこにはAIという全体情報の最適化とカオスの導入が必要となろう。それを想起したソーシャルデザインを目指すのが人間の面白みではなかろうか。間もなく販売の第4世代電気自動運転自動車のニュースを見て、いよいよもって面白い世の中になりそうだなと興味津々な私であります。