思考の基準

我が国の人口が減り始めて数年経つ。いずれは自分もその数を減らすことに貢献することになる。これは決定項目であって、誰にもどうすることもできない。電磁気学で言うところの無限遠点を基準にして考えるとというのと似ているかもしれないが、個人の人生をどう捉えるかという事に関して、自らが価値観の原点を定めることが必要だと考えている。苦しいとか空しいとか幸せだとか、そんなもん、自己の中に基準を置けば何とでもなるもんだ。

お仕事の上で言えば、組織でやらなければならないことがあるわけだけど、自分が任せられたことを精緻に分析して、ここだけは自分の力で何とかしよう、後は協力を仰ごうと自己能力を常に分析し持っていることが組織力の中に自己機能認識になり、それを見える化しておくことが、組織全体の力の向上に繋がる。自分が何を出来るのか分からないのに、そこに存在していることは悪であるという認識が必要だ。勿論、自分にはこれは無理だということも併せて見える化するのが良い。そしてそれを組織は認証しなければならない。

「だって、そんな話は聞いていなかった」、「いや、言った」みたいなことがしょっちゅう起こる。なぜ起こるのかと言えば共通言語で喋って無いから。同じ単語の意味を共有していたとしても、時・場が異なると、異なる理解に陥って、異なるゴールに到達してしまうことがある。上長はそうなる手前のマイルストン設定も併せてしないといけないわけだが、これなどは共有したゴールでは無く、ゴールが生み出す価値を共有しておくことで自分の迷子状態を防げる。

つくづく思う。人は人、自分では無いのです。独り言を言ってごらんなさいよ。自分の言葉で喋るでしょ。その基準は自分でしょ。すると独り言以上の事は出来ないし、欲望も無いんだよね。「酒呑みてぇ~」って喋ったら、それは自分が呑みたいってことであって、誰かに付き合ってあげようって事では無いよね。誰かが基準では無い。自分の過去を基準にするのでもない。まだ来ていない未来を基準にして、なりたい将来を描きませんか?そして目指しませんか。そんな自分を受け止めた人に溢れた社会にならないと、国家人口はゼロになるんでしょうね。そうならないことを祈るだけだ。